DK虎次郎×現在薫のすこしふしぎ
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よく知っている道だった。
よく知っているはずの道だった。地面や、両側に立ち並ぶ家々や、公園や、眩しすぎるほど高く青い空。蒸し暑さは微粒子となって空気の中に散りばめられ、呼吸のたびに体内を侵食する。
どれも生まれたときから馴染みのあるものだった。
──そのはずだが、いっぽうで完全には一致しておらず、なにかが違うと感じた。いつも通りかかる道のかたわらがある日空き地になっていて、昨日までそこにどんな建物が建っていたのか思い出せないときに似ている。この家の屋根はこんな色だっただろうか? あの店の店主はこんなにも皺が深かっただろうか?
虎次郎は、そもそも、なぜ自分がこの道に立っているのかよくわかっていなかった。数分前の自分がどこでなにをしていたのか思い出せない。そんなことがあるものかと思っても、実際にそうなのだからどうしようもない。薫に言ったら鼻で笑われるところだったが、あたりを見回してもその幼馴染の姿はなかった。
道端に立ち尽くしていても仕方がないので、とりあえず歩くことにする。
高校の制服を着ている以外なにも持っていない。通学鞄も、スケートも、携帯電話もなかった。家へ帰ればなんとかなるかと歩き慣れた道を進む。歩き慣れていることはたしかなのに、それでもやはりどこかに違和感がついて回った。ひとがいないわけではないが、知り合いに会わないので話しかけるわけにもいかない。
いくつかの角を曲がり、通りの途中に差し掛かったところで違和感は決定的になった。
立派な屋敷が建っている。この道も知っているはずだが、こんな屋敷はなかった。いくら虎次郎の記憶が曖昧だといってもこんな屋敷が以前から建っていたなら忘れるわけがない、そういう存在感があった。モダンなつくりの和の建物は、貫禄があるが古びてはいない。門の前にシーサーが家を守るように構えている。
思わず屋敷の前に立ち止まる。目線を上げると分厚い木の看板がかけられているのが見えた。書かれているのは流れるような筆文字だが、虎次郎にもかろうじて読めた。
桜屋敷書庵。
あまりにもよく知っている三文字だ。だがあとの二文字と結びつかない。上の句と下の句がちぐはぐな短歌のようなのに、不思議としっくり収まっているようにも感じた。
虎次郎の知っている桜屋敷家はひとつきりだし、この土地にありふれた氏というわけでは決してない。
薫の家は別の場所にあるはずだが、親や親戚が突然ここでなにか商売でも始めたのだろうか。そんな話は薫からは聞いていない。だいたい書庵ってなんだ、薫の字があの派手な外見からは結びつかないくらい異様に綺麗なことと関係があるのか?
そんなことを突っ立ったままあてもなく考えていると、からからと扉を引く音が聞こえ、中からひとが現れた。地面を擦るさりさりという音は、虎次郎が履いているスニーカーや、学校でよく聞くローファーの奏でる音とは違う。
その人物は家の前の数段の階段を降りようとして、立ち止まった。
「────虎次郎?」
低くまろい声に名前を呼ばれ、虎次郎は今度こそあんぐりと口を開けるはめになった。
目立つ桜色の長い髪も、切れ長の鋭い目も、すっと伸びた背筋もよくよく知っている。ただ、知っているのはそれだけだ。それ以外の部分が、あまりにも虎次郎の知っているひととはかけ離れている。よく似た別人だと言われたほうが納得できるくらいには、同一人物と判断するのが難しかった。
毎日律儀にセットしていたはずの髪はすっかり下ろして軽く結っているだけだし、虎次郎の記憶よりひとまわり体格のよい身体は落ち着いた藍色の着物に包まれている。さきほどの耳慣れない足音の正体は草履によるものだった。眼鏡までかけて、まるで優等生だ。あいつ、視力いくつだったっけ。
「お前、その格好……いや……」
たいして意味をなさない言葉を紡ぐ虎次郎を見下ろして、彼は訝しげに眉をひそめながら、手に持っていた扇子を口元へあてた。そう、その口だって、虎次郎が知っているそれは金属で飾られているはずなのだ。
「タイムトラベルの成功論文は存在しないはずだが……しかも過去から未来へ……? しかしこんなゴリラになりかけの馬鹿がこの世にふたりいるとも思えん」
なにやらぶつぶつと呟くのが虎次郎の耳にも届いた。今、息するついでに罵倒されなかったか?
「一応聞くが、名前は?」
「……南城虎次郎」
「そうか。俺は桜屋敷薫だ。入れ、茶くらいなら出してやる」
そう一方的に言い残すと薫──虎次郎はまだ納得していないが──はさっさと踵を返し、扉を開けて屋敷の中へ入ってしまった。扉は開かれたまま、虎次郎が来るのを待っている。
茶くらいなら。その言葉で虎次郎は自分がひどく汗をかいていることに気がついた。そうなると急に喉の渇きも覚えてしまって抗う理由を失い、扉の奥へふらふらと足を踏み入れた。
屋敷の中は薫の部屋のような匂いがした。香を炊いているような香りもするから、虎次郎が知っているあの部屋よりは上品だ。けれど虎次郎の優秀な嗅覚はその中にある薫本人の匂いを感じ取ることができた。
ではやはり、この男は虎次郎の知っている薫なのだろうか。いつの間に大人びて装いを変えたのか、それとも外の街並みといい、おかしいのは虎次郎のほうなのかもしれなかった。
通されたのは一階の応接間のような部屋で、がらんと広い和室に一枚板の立派な座卓が置かれている。それを挟んで向かい合うように座布団が敷いてあり、どちらかへ座っても怒られはしないだろう。
入り口に立ったままそう考えていた虎次郎の脛が背後から軽く蹴られ、なんの構えもしていなかったので前のめりになる。なんとか転倒は回避したが、靴下が畳を滑って不恰好なたたらを踏んでしまった。
「どけ、邪魔だ」
片手に盆を持った薫が虎次郎を押しのけて部屋へ入り、透明なグラスをふたつ座卓へ並べると一方の座布団に正座した。足癖の悪さに彼が虎次郎の幼馴染であることの確証を得ながら、虎次郎は残ったほうの座布団に腰を下ろしあぐらをかく。
「……いただきます」
状況はまったく理解できないが、とにかく喉が渇いていた。薄いグラスの中は淡い緑色の冷茶で満たされたうえに氷が浮かんでいて、見るからに涼しげだ。舌の上に流し込んだ茶からは青々とした甘さとみずみずしさが広がり、その冷たさと相まってようやく混乱が落ち着いてきた気がする。
そうなるとはっきりさせるべきはこの状況だ。桜屋敷薫と名乗った目の前の男はたしかにそうなのだろう、そうなのだろうが、虎次郎はこんな姿を知らない。
「一体なんなんだ……本当の本当に薫なのか?」
「そうだ。お前は俺を疑うかもしれないが、俺はお前を知っている」
ずっと昔のことだがな。ひとりごとのように言って薫も冷茶のグラスを傾けた。
あまりに非科学的で認めがたいが、目の前にいて、会話して、茶まで飲んでいるのだから、ここにいるのが高校生の虎次郎であると認めざるを得ない。未来の薫と対峙している虎次郎と違って、薫は過去の虎次郎を知っているから、どんな理屈かにさえ目を瞑ればそれが虎次郎であると受け入れるのも早かった。
高校の時分のことなどそう頻繁に思い起こすものでもないが、すぐそこに存在されるとさすがに考えずにはいられない。
今の虎次郎ほど鍛えてはおらず、せいぜい薫より少し上背がある程度だった。そんなに軟派でもなかった。近寄ってくる女を拒否することはなかったけれど。今よりずっと青くて幼かった、虎次郎も、薫も。
「どうしたんだよ、その格好。ピアスは?」
「もうしていない。穴もまあ、目立たない程度には塞がっただろう」
ほら、と薫は右を向いて左耳を虎次郎に見せ、髪をかき上げた。はらはらと落ちる桜色の髪の隙間に白い耳が覗く。虎次郎は薫の耳のどこにピアスホールがいくつ開いているか知っているから少しだけ窪んだその跡をすぐに見つけることができたが、知らないひとは気づきもしなさそうな、そのくらいの跡だった。ピアスをつけなくなって数年は経っているだろう。
「なんで、」
「おい、聞くのは俺の話ばかりか? 自分のことを知りたいとは思わないのか」
「え」
「今のお前がどうしているか知りたくはないと?」
なかば呆れながら言われて虎次郎は初めてそのことに気がついた。成長した薫がいるのなら、同じように成長した虎次郎もいるはずだ。そうでないと困る。ずっとそうやって一緒に過ごしてきたのだから。
「俺……俺は、どうしてる? 仕事は……」
もしこの屋敷の前で立ち止まらずに家へ帰ったなら、この薫と同い年の自分と鉢合わせただろうか。それとも実家を出て一人暮らしをしているのか。薫が近くにいない生活は想像がつかないが、進路が別れたら今のように毎日会うようなことはなくなることくらいはわかる。
「薫は、俺と今も会ってるのか?」
「さあな」
「おい!」
「言ったらつまらないだろう。俺のせいで馬鹿の進路に影響が出ても困る」
小馬鹿にしたように鼻で笑う仕草は虎次郎の知っている薫と同じだった。黙って立っていれば立派な大人に見えるのに、黙らないから子供のときと変わらない。
こういう態度を取ったらもう、薫はてこでも話さない。聞き出そうとするだけ無駄だ。
虎次郎の深い溜息をどう捉えたのか、薫はいつも聞くよりも低い声で、いつものように淡々と喋る。
「まあ、こういうのは眠れば元の世界に戻るものだ」
「なんだよそれ」
「お前に借りた漫画でもそうだった」
さて、漫画の貸し借りなど数えきれないほどやっているが、そんな内容のものがあっただろうか。軽く記憶を漁ってみても心当たりがなく、虎次郎は首を捻る。
「なんて名前の漫画?」
「……秘密」
未来の楽しみを奪うのは忍びない。薫は楽しそうに喉で笑った。
「そうと決まればさっさと寝て帰れ。その座布団を枕にするくらいなら許してやる。俺は仕事があるんだ」
「仕事ってなんだよ」
「お前には理解できないような繊細な作業が山ほど」
「んだと、喧嘩売ってんのか」
売り言葉に買い言葉、はいつものことだ。だが薫は黙ってぱちぱちと瞬きをした。喧嘩は売られていなかったらしい。見慣れない眼鏡の奥で瞳が細められるのを、不意打ちされたような気持ちで見た。
「今のお前ならひと蹴りで倒せそうだ」
「なに!?」
「ちょっと立ってみろ」
やはり喧嘩かと虎次郎が応じると、薫も立ち上がって虎次郎の正面に来た。だが蹴りは飛んでこない。代わりに花の蜜の色の瞳が細められ、虎次郎は息を呑んだ。
妙な心地がするのはいつもと視線の絡み方が違うせいだ。薫は虎次郎より少し背が低いはずなのに、今はちょうど同じくらいの高さに目線がある。真正面に薫の顔がある。
思わず目を伏せる。薫の薄い下唇に、耳と同じように、虎次郎だけが気づけるであろうピアスホールの跡があった。
あからさまな視線を揶揄するように薫が笑ったので、虎次郎はぱっと顔を上げた。高校生の薫の尊大な態度とは違う、年長の余裕のようなものが伝わってきて、つまり自分は幼く見られているのだと思うと頭が沸騰しそうだった。
「薫、」
「見てのとおり今の俺はこんなだ。だから」
薫の長い指が虎次郎の頬をなぞり、指先が後頭部の刈り上げた髪を撫でる。ぞわぞわと身体を駆け上げるものの正体すら見透かしたような顔をして、薫は虎次郎の下唇をやわく噛んだ。
「ピアスをしてるほうの俺とこういうことをしたいなら早めにしておくことだな」
結論から言うと、着物の薫の読みは当たっていた。
「やっと起きたか」
ぼんやりとしたまどろみの中に、さっきまで聞いていたものより高い薫の声が降ってくる。
妙に重たい瞼を開くと教室の机と、そこに置いた自分の腕が目に入った。うつ伏せで寝入ってしまったせいで肩が痛い。教室の中も窓の外も夕日でオレンジ色に染まり、机を挟んだ前の席に座っている薫のハーフアップにした髪だけがオレンジに負けず花びらの色をしていた。
上体を起こしきったところで急激に頭が回り始める。
今まともに直視するのはまずい、なにがまずいかはよくわからないがとにかくまずいと思いながら、金縛りにあったかのように目も顔も動かせない。
薫は眉をひそめると、机に腕をついて身を乗り出した。近い! そう訴えたくても喉が動かない。ピアスの光る薄い唇が目の前にある。あれに触れるとどんな心地がするのか、虎次郎はもう知っている。ただしピアスはなかったけれど。
うたた寝から起きたきり動きも喋りもしないのはさすがに不審に見えるのだろう、薫は胡乱げに小首を傾げた。長い髪がさらさらと揺れる。
「……虎次郎?」
呼ばれてようやく金縛りが解け、ガタガタと大きな音を立てて勢いよく椅子から立ち上がった虎次郎を見上げる薫の頬は、西陽が射していつもより赤く見えた。
昼でも夜でもふらりとやってくる着物の男のことはお互いが床を這い回っていたころから知っているが、彼は食事が目当てとアピールするかのように虎次郎のことはあまり見ない。目が合って口を開けば喧嘩になるし、そもそもここは食事をするための店、虎次郎はただのスタッフであって、あくまでメインは料理なのだから、特段それを気にしたことはなかった。
だから今日やたら視線を向けられるのが気になって仕方がない。ディナーにしては遅めの時間、他のテーブルはもうデザートとコーヒーをサーブし終えて、あとは会計に呼ばれるのを待つだけだ。カウンターにひとり向かった薫はことさらゆっくりとサラダを口に運びながら、クローズの作業を手際良く進める虎次郎へちらちらと視線を寄越している。
「……なんだよ」
店内に流れるスローテンポのジャズにまぎれる程度の声で問うと、薫はぱちりと瞬きをして目を細めた。
「いや?」
こんなにわかりやすく機嫌がいいのは珍しい。
好みの味つけにした渾身のメインディッシュならともかく──それだってこんな反応を得られるかは怪しい──普段とそう変わらないサラダで機嫌がよくなるはずはなく、虎次郎にはまるで原因の見当がつかなかった。
「昔はこんなにゴリラじゃなかったのにと思っただけだ」
返ってきた答えはやはり要領を得ない。
いつもの口喧嘩を売るにしては表情と声音が合っておらず、どう返したものかと言葉に詰まった一瞬を埋めるように、スープはまだかと催促が飛んできた。
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