古泉と消失古泉と長門
望まれない来訪者
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その時の文芸部室は、非常に珍しい状況だった。稀少であり、異質でもある。
いつもの彼に倣い軽くノックをしてみたが返事はない。これがまず珍しい。放課後、僕がこの部屋へ到着する時には既に他の団員が揃っていることが多いのだ。全員とはいかなくても、授業に出ているのかどうかすら怪しい長門有希はその存在を含めて文芸部室といってもいいほどのもので、彼女の姿がないとなんとなく落ち着かない。これは他の団員にとってもそうだろう。そこにいることに意味がある――彼女はいまや人間のように、そんなポジションを獲得しつつあった。
また、僕の所属する一年九組は文芸部室とは対角の位置にあり、同じ時間にホームルームが終わったとしても単純計算では僕の方が到着までに時間がかかる。特進クラスらしく一般のクラスにはない特別授業がおこなわれることもあるので、そうなれば更にきっかり一時間遅くなる。そんな理由もあって、ノックをすれば誰かしら返事をくれるのが常となっていた。
それが、今日は返答がなかった。物音ひとつ、ページを繰る気配すらしない。
だがノブを回せば鍵はかかっておらず、扉を開くことができた。訝るようにして覗き込んだ部屋の中、窓際に佇む人影を認識する。
改めて云うまでもないことだが、我がSOS団は既に全校中にその名を轟かせており、その内容はまさに触らぬ神になんとやら、であって、つまり北高内でわざわざ涼宮ハルヒとその一味にちょっかいを出そうなどと考える人物は鶴屋家令嬢くらいのものだ。だが僕が認識したその影は鶴屋さんではないし、女性ですらない。明らかに自分と似通った背格好をしていた。
――そう、似通った。
かの人の、早い西日に照らされた横顔はゆっくりと、扉の前に立ちつくしたままの僕の方へと向き直り、やはりゆっくりと、笑んだ。
「こんにちは。――入ったらいかがです?」
黒い詰め襟に身を包んだ、僕。
見慣れた、見飽きた、吐き気のしそうな笑顔を浮かべて、『僕』は僕を見ている。目を逸らさなかったのは逸らせなかったからだが、それは本能的な部分で逸らしてはいけないと感じたからだ。そういう隙は一瞬たりとて見せてはいけないと思った。
僕と同じ色をしたあの目が訴えるのは、明確な敵意だ。
「別に取って食いやしませんよ。他のみなさんが来るまではまだ時間がありますし、少し話しませんか」
なぜそんなことがわかる――とは訊かなかった。誰何もしなかった。
唇を歪めて返答に代え、部室の中へ踏み込む。がちゃ、と無遠慮な音をたてて扉が閉まり、途端、閉塞した中で重くたゆたうような息苦しい空気に支配されて、頭の片隅にタールを思い浮かべた。
「あなたに興味があるだけです。あなたは、僕の顔も声もお嫌いかも知れませんがね」
云いながら『僕』は近くのパイプ椅子を引き寄せる。だが僕の方をちらりと見、くつくつと喉を鳴らしながらそれを元の場所へ戻した。
僕の定位置の対面、彼がいつも腰を落ち着けている椅子だった。
「そんな怖い顔をしないでください。もう触れませんから」
そんなって、どんな顔だ。今、鏡を持ち出して自分の薄くなった仮面の状態を確かめる気分にはなれない。そんなことよりも、いまやなにものにも代え難い安息の地であるこの部室から、意志を持って迷い込んだであろう異分子を一刻も早く排除したかった。いくらこの部屋が異空間化して飽和状態にあるといっても、それとこれとは全くの別問題だ。
例えその異分子が自分の生き写しにしか見えない姿をしていても。自分が確かに隠し持っている、皮肉に満ちた物言いをする存在であっても。それならば尚更、「他のみなさんが来るまで」にいつもの部室にしておかなければならない。この『僕』をこのままここに置いておいていい理由などひとつもない。
「何をしているんですか」
意図したよりも低く乾いた声が出て驚いた。『僕』は迷いなく笑っている。
「僕が誰かをお訊きにならないのですか?」
「興味ありません」
一蹴すると『僕』はさも可笑しそうに下手な手振りをつけて笑ってみせた。それが心底他人を見下したものでしかないことを僕は知っている。
あれは、僕だ。
わかってしまうのだからしょうがない。人間は誰だって複数の側面を持っている、僕のその中でいちばん真っ黒でどろどろしていて狡賢い、厭な部分の塊が具現化してあれになったのだ。そうして別の側面、つまりあんなにも嫌っていた彼や彼女や彼女たちをどこまでもいとおしく思う部分ばかりが表に出てきているこの僕の前に現れたのだ。
そんな、怪奇現象か妄想、または入院必須の精神病としか思えないようなこの現実を、僕は受け入れることができる。世界がいつまでも自分の馴染んだ姿を保ち続けるなどということは幻想でしかないことは、痛いほどに知っている。それが偶然いまここで、僕の前で起きたというだけだ。
不意に『僕』が笑い声を止め、髪を掻き上げた。前髪に隠されていた表情が見える。
値踏みするような視線が僕を見ていた。ぞっとする。お前はいつもこんな目で世界を見ているのだと、云われたような気がした。
「あなたが、そうなんですね」
『僕』は曖昧な表現で――いつも僕がしているように――話を続けた。なるほど、そうですか、とひとり納得して頷いている。それが僕の気に障ることを知って。
だがそれを、咎めたり糾したりする隙は、なかった。
「改めて確認するまでもないこととは思いますが、一応お聞かせください。先程申し上げたように僕はあなたに興味がありますのでね。――あなたは、古泉一樹ですか?」
「そうです」
『僕』ではなく、この部室へ入ることを赦された「古泉一樹」だ。
それを聞いて『僕』は、ひどく納得したように、笑んだ。
「なるほど、あなたが――こちらの世界の」
こちらの、世界?
「待ってください。それはどういう意味ですか。あなた――あなたは何者なんです」
「おや、僕には興味がないのではなかったのですか?」
わかっていて、惚けたような声を出す。そんなことはどうでもよかった。
世界、というみじかい言葉はあの日から自分の中で明確な重みをもっていて、それは漠然としてはいないし曖昧なものでもない。はっきりと、手で形を確認できるような、すぐ近くにある存在だ。それでいて、たったひとりの少女の精神状態によって裏返ってしまうほどに脆く呆気ない。
世界は、僕たちの生きる根底であり、すべてでもある。それを僕は実体験で知っている。だからおのずと、その言葉には敏感になってしまうのだった。なにも知らない人間が大勢生きていて、宇宙人も未来人も存在して、そして世界を守ることができる僕がいる。
だったら、僕が世界を守ればいい。
「個人的でない事情が関わっているのなら話は別です。どんな関係があって――あなたは、どこの世界に生きているんですか」
「そうですね、今お話ししても構いませんが、折角ですし」
ふふ、と『僕』は僕と同じ声で笑った。
「詳しいことは、彼に訊いてみては?」
凍りつく。『僕』が僕ならば、彼という代名詞を用いて指す人物はひとりしかいない。だがどうして『僕』が彼の存在を持ち出すんだ? なにか関係があるのか――僕の知らないところで?
「何故そこで、彼の名前が――」
その時。
かちゃ、と控えめに、けれどはっきりと、扉のノブを捻る音がした。
反射で視線を扉へと向ける。気配にすら気づかなかった。そっと開いたそこから現れた影に、思わず安堵の溜息が漏れた。
入ってきたのはこの部室の正式な主でもある長門有希だった。その姿を見て安堵するというのは以前の僕では考えられなかったことだ。彼女ならばこの状況に対処こそすれ、不利な言動をとることはないだろう。その考えは利害関係の一致であると同時に、個人的な信頼を多分に含んでいる。
長門さんは僕を見てから、窓へと視線を移した。つられて僕もそちらを見る。
ついさっきまで闖入者が立っていたそこには、夕闇に染まったいつもの部室だけがあった。
「今」
「……ああ」
落ち着きつつもまだ混乱を消し去りきれない頭がちいさな声を拾う。振り向くと、ガラス玉のような眸が僕を見ていた。それが探るような色をしていると思ったのは、気のせいか否か。
「話し声を聞かれてしまいましたか。実は電話をしていたのです。用件は済みましたから、どうぞお気になさらず」
「――――そう」
情報統合思念体に直結したアンドロイドにあるまじき数秒の間が引っかかったが、それが一体なんなのか、今の僕には知る由もない。
現実に引き戻されて――あの『僕』がいたのも確かに現実世界でのことだが――急に寒さが身に凍みた。薄い窓の向こうを見やる。うっすらと、地面に落ちる前に溶けてしまうような儚い雪が降っていた。
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