翼を失い、はじめて大地を踏みしめる

古泉が能力を失ったら

 例によってSOS団アジトこと文芸部室で古泉とオセロをしていて、奴の白いコマを三つほど黒くしてからお前の番だと云おうと盤上から古泉へ目を向けた、その時だった。
「――古泉、」
 古泉も驚いた顔で目を瞬かせ、意味もなく掌を握ったり開いたりしている。それから、そこへ落ちた雫を見て、ようやく自分の状態を理解したらしい。呆然としながら俺を見た、その眸は透明な膜に覆われて。
「お前――なに、泣いてんだ」
「すみません――いま、僕、は、」
 いつもはすらすらと長演説を垂れる古泉が、ぼろぼろと涙をこぼして吃りながら喋る。あまりにも常態とかけ離れたその様子にうまく反応できない。ハルヒたちがこちらの様子に気づいたようで、女子三人の視線が刺さった。あの長門も、綺麗に伸びた背筋のまま古泉を見ている。じっとなにかを探るように。
 全員の注目が自分へ向いていることに気づいた古泉が慌てて席を立った。錆びかけたパイプ椅子が鳴る。
「あ――すみません僕、少しだけ失礼します……っ」
「おい、古泉!」
 半ば捨て置いて逃げるように文芸部室を出て行った。なんなんだ、俺なんかしたか?
 追いかけようとしたところでハルヒの声が届いた。
「なに、あんたたち――古泉くん、どうしたの?」
「わからん。俺が行く」
 だからお前は来るな、ここで待ってろ。その意図は違わず伝わったようで、ハルヒはそれ以上なにも云わなかった。朝比奈さんがおろおろと動揺する向こう、長門が顎を二ミリだけ引いて、しかしはっきりと頷くのが見えた。

 おそらく全力で駆けていった古泉は俺よりもリーチが長く(くそ)、運動神経もいいので(忌々しい)、俺が追いついた時には、今まさに屋上の扉を開けようとしているところだった。
「ちょっ……待て、古泉!」
 古泉はびくっと肩を震わせて振り向く。だがすぐに向き直って扉を開けたため、轟と風の音がして古泉が返事をしたかどうかもわからなかった。わからないから、更に追いかける。
「古泉、待てって!」
 屋上は風が強かった。柵を握りしめてしゃがんでいる古泉の茶色い髪がばさばさと乱されていた。とりあえずこれ以上は逃げないだろう、俺は速度を落として古泉に近づいた。その気配に気づいたらしい古泉が立ち上がる。額を柵に押し当てて、髪が風に揺れているので顔が見えない。まだ泣いているのだろうか。俺は古泉の泣き顔など見たことがなく、しかも原因不明とあって、ここまで追いかけてはきたもののどう声をかけたものかと逡巡した。
 隣に立って、柵越しにグラウンドの方を見ている古泉とは逆、柵に背を預けて視線を上へやる。一面に広がるコバルトブルーの中、真っ白い雲が緩やかに泳いでいた。
「涼宮さん、が」
 風の隙間から古泉がぽつりと落とした声が届いた。その声は存外しっかりと響いて、さっき見た泣き顔と照らし合わせて柄にもなく安心する。しかし、ハルヒがなんだって?
「涼宮さんの、あの力が、消えました」
 その言葉はなぜかひどく遠くに聞こえた。それは理解するまでにかかる時間だったのかも知れない。俺はハルヒが持っている(持っていた、か?)らしい力をこの目で見たことがないし、その影響を受けている自覚もない。あるのは巻き込まれているという認識だけだ。例の映画撮影やあの改変世界を経験してはいたが、それが本当にハルヒ謹製の力なのかどうか、信じる理由はどこにもなかった。つまり信じきってはいなかった。
 だが古泉は――四年以上もの間、ハルヒが作り出した(らしい)閉鎖空間や《神人》の相手をしてきた古泉、は。
「涼宮さんはあの力を失いました。もう世界は、すべて彼女の思い通りにはなりません。閉鎖空間も発生しません。《神人》が暴れて世界を壊すようなこともありません」
 古泉は確認するように云った。神託のような響きだった。
「僕が閉鎖空間で《神人》を鎮めることももうありません。僕はもう」
 強かった風は、いつの間にか凪いでいる。
「超能力者でもなんでもない、ただの人間です」
 そこでやっと古泉は顔をあげて俺を見た。泣き腫らした目と合うと、あんまり見ないでください、と云って少し笑った。
 俺にはまだ理解できない。そもそもの部分を理解できていないのだから当然かも知れない。
「それは――よかった、んじゃないか」
 古泉は答えなかった。
「そうだ、あの夜も、こんな風に――涙が、出て」
 そこで古泉は言葉を切って、見るなと云ったくせに自分から俺の方をじっと見つめてきた。その目はまっすぐに俺を射抜いていたが、それでも揺らいでいるような気がした。
「――これで、よかったのでしょうか」
 云って、また視線をグラウンドへやる。野球部が練習しているのがそんなにおもしろいか。――そういえば、野球、やったなあ。ハルヒが巻き込んでくれたおかげでやった数々の諸行が頭の中に浮かんでは消えてゆく。
 古泉にはたぶん、それ以上の様々な物事が。

「僕は、確かに、あの夜からいろんなことを経験してきました。最初はただひたすらに怖かったです。『機関』から迎えが来ても現実は変わらなかったし、僕を蔑む人もよくしてくれる人も、僕を救ってはくれなかった。そんな風になってしまった原因がひとりの我侭な少女だと知った時は愕然としました。事態を理解すればするほど、涼宮さんとこの世界が――憎、くて、仕方がなかったんです。転校してきてこんなに近くにいたら、自分がなにをしてしまうかわからなかった。朝比奈さんと長門さんについても同じようなものです。彼女たちに限ったことではありませんが、もはやたった一つのアイデンティティとなった涼宮さんを神とする考えに、相対する組織はいくらでもありましたから。涼宮さんの力について知らない人間がいることの方が不思議なくらい、彼女の力を巡る情勢は複雑にして大きいんです。そんな中で、一番の要注意因子だったのが、あなただ」

「今だから、今だから云ってしまいますが、僕はあなたのことが、ある意味で涼宮さん以上に、憎らしかった、です。なにも知らないくせに、神に気に入られて、一番近くにいて、神の機嫌を左右する存在なんです。エゴだとわかっていても、理不尽としか思えなかった。本当に、憎くて憎くて、嫌いでした。僕は、あなたのことが、大嫌い、でした。――そんな自分も」

「今考えれば、あの時はそもそも好きなものなどひとつもなかったんです。世界のすべてが大嫌いでした。でも捨てることはできなかった。あの能力だけが自分を証明してくれたから、それがある限りは僕は世界に必要とされているのだと、そう思えたんです。だからそれがあるべき姿ならそうあろうと、ここへ来て、神の傍で仮面を被って、役に徹しました。それは巧くいっていると思っていたし、なにより僕が楽でした。なにも考えなくてよかったので。でも」

「いつの間にか、僕は――仮面の下の僕は、嫌いだった世界を、好きになっていたんです。涼宮さんをとても可愛らしい女性だと思うようになりました。朝比奈さんと長門さんは信じられないくらいに優しい方たちです。こんな僕を、拒絶しなかった。そして、あなたも――あんなに大嫌いだったあなたのことを、今はこんなにも愛おしく思う。世界が壊れる瞬間を何度も見てきて、けれどそれがなくなって、あの能力が失われた今、僕に残っているのはあなたや、あなたたちとあの場所が大切だという、その気持ちだけです。それが最後に残った僕の真実です。でも、その一方でどこかへ」

「とても大切なものを、忘れてきてしまったような気分です」

 古泉のその整った横顔に、ぽろ、と一粒だけまた涙がこぼれた。
「――古泉」
 お前がそんな、赦しを乞うような、懺悔するような声で話す必要はどこにもないんだ。お前の罪も罰もどこにもないし、お前の神はお前を断罪しない。絶対に。
 古泉は顔を伏せて、早口で云った。
「すみません、喋り過ぎました」
「いいや?」
 無性にその風で乱された髪を撫で回してやりたいと思うのは、なんなんだろうな。やらないが。
「理論武装で演説されるより、今みたいな方がずっといいな」
 古泉は一瞬俺を見たが、すぐにふいと別の方へ向いてしまった。たぶん、こういう時はあまり余計なことを云わない方がいい。心地好い風の中、二人して黙っていたところへ場違いな電子音が響いた。古泉が反射で携帯電話を取り出してディスプレイを見つめ、数秒待ってからようやく着信に応じた。
「はい。――はい。ええ、わかっています。僕も感じました。――今、ですか?」
 古泉はちらりと俺を見て、子供みたいに笑った。
「すみません、今はSOS団の大事な会議中なので席を外せません。下校したらまた連絡します」
 一方的にそう伝えて古泉は電話を切った。えらく清々しい表情をしていて、呆然と泣いたり長々と心情吐露したりしていたことを忘れそうになる。
「いいのか?」
「いいんです。これから僕のような超能力者がどういう扱いになるか――あまり優遇は望めませんが――その決定を下される前に、僕はまだSOS団の副団長でいたい」
 云って、古泉は赤くなった目元を震わせて笑った。不覚にも言葉に詰まる。
「その、顔」
 今頃文芸部室は大騒ぎなんだろうな。長門は事情をわかっていたようだが、まさかそれをハルヒに伝えるわけにもいかないし、間違っても俺が古泉を泣かせたみたいな曲解に至っていないことを祈っておこう。
 万が一そんな事態になっていたらお前が弁護しろよ、元々理屈っぽいのはお前の担当なんだからな。
「戻ったらハルヒたちにも見せてやれよ」
 古泉は、できたら僕とあなただけの秘密にしておいてください、とかすれた声で云った。

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