プロローグ

合鍵

 放課後に彼が僕の部屋へ寄る時、家主である僕がドアを開けるのは当然のことだ。そんなことには誰も口を挟まない。だからいつものように――いつものように、なんて云えるほどこの動作がおこなわれていることに感動を禁じえない――ドアの前で鞄の中から鍵を取り出そうと、した。
 したのだが。
「……あれ、」
 いつも鍵を入れている内ポケットに、それは入っていなかった。数度指先で探り、視覚で確認しても見当たらない。記憶が正しければ朝、鍵をかけてそれをしまったはずなのに、ない。なにかの弾みでポケットから零れ出てしまったのだろうか。
 キーホルダーの類を一切つけていないのが仇になったかも知れない。鞄の中はそれなりに物が入っていて、薄闇の中で小さな鍵を見つけ出すのは容易ではなさそうだった。
「どうかしたか?」
 ごそごそと鞄の中をかき回すだけでいつまで経ってもドアを開けない僕に焦れたのか、彼が訝しげに声をかけてきた。
「いえ、その――鍵が見当たらなくて。すみません、もう少し待ってください」
 彼の顔も見ずに云いながら手は止めず、荷物を乱し続けた。教科書やノートの間に挟まってしまっているのだとしたら厄介だ。いっそ中身を全部ひっくり返してしまった方が早いとも思ったが、そんなことをしたらそれを片付ける手間が増える。彼は呆れて溜息をつきながらもきっと僕の私物を拾い上げてくれるだろうけれど、秋から冬へと駆け足になっているこの季節、できるだけ早く部屋へ入って暖まりたい。
 財布の中、には入れていない。パスケースに潜り込んだか? 確かめるため開いたそれには、普段どおり定期券しか入っていなかった。ああもう、これ以上どこを探せっていうんだ――
 がちゃり。
 アパートのすぐ下を通る車の音も拾わなくなっていた僕の聴覚に、その音は突然飛び込んできた。反射で顔をあげる。
 ドアが開いていた。
 開けたのは彼だ。僕の手に馴染んだドアノブを、今は彼が握っている。半分ほど開いたドアの奥に覗くのは真っ暗な自分の部屋。そしていつもの、いろんなことがどうでもよさそうな、それでいて実は周囲をよく見ている彼の表情。
 ドアノブを握っているのとは反対の手のひら、銀色の鍵が街灯に光った。
「ほら」
 早く入れ、寒いんだから。彼は涼宮さんの突飛な提案に形だけで反論する時のような、なんでもなさそうな口調で云った。
 一方の僕は、事態をうまく飲み込めずに莫迦みたいにつっ立ったまま。
「――それ、は」
「え?」
 彼は手に持った鍵を目線の高さまで上げて見せた。鈍く光る平べったい表面は僕の持っているものと同一に違いなかったが、形の違う鍵がふたつ、キーチェーンでつながっている。それは、きっと、彼の自宅と、自転車の。
「お前が勝手に渡してきたんだろうが」
 それ、いつの話ですか。とっくに忘れ去られてしまっていると、渡した僕だってもうそのことを意識しなくなっていたのに。いつからそんなふうに、自分の家の鍵みたいに扱っているんですか。今まで一度だって、それを使って僕の家を開けたことなんてなかったのに。どんな気持ちで毎日その三つの鍵を持ち歩いていたんですか。
 訊きたいことはなにひとつ、声にならなかった。
「そんなことはいいから入れって」
 話なら中で聞くから。そう云われてようやく足を動かして部屋へ入り、続いて入ってきた彼が鍵をかけるより早くその冷えた背中を抱きしめた僕を誰が責められよう。
 おい、と彼は小さく云ったが、言葉にも仕草にも雰囲気にも拒絶の片欠も見当たらない。調子に乗って頬を擦り寄せると彼が体重を僅かに預けてくれた、それはきっと錯覚じゃない。
 この、胸いっぱいにじわりとひろがるあたたかいなにかを、どう伝えればいいのだろう。
 彼が今みたいに僕の代わりにドアを開けてくれたり、あるいは――夢想でしかないと思っていたけれど可能性はあるんだ――僕の留守中に彼がこのつめたい部屋へ来て明かりを灯しておいてくれたり、そういうことはきっといつか、夢想することすら本当にただの思い出になってしまうだろう。
 それでも、それまでは。彼がポケットに僕の部屋を開ける鍵を持っていてくれる間は、自信過剰だと笑われてもいい、迷うことなくひるむことなく大袈裟なまでに夢を見続けていようと、そう、思った。

 それが、彼を信じるということだ。

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