rethinking

なんちゃって自由意志論

 ここで問題になるのはただ一点、人間に自由意志があるのか否かということです。動機も責任もすべて自由意志ありきなのですから、自由意志がないことには人の気持ちすら偽りであると考えられます。――ええ、ええ。そうです、おっしゃるとおり、僕は自分の自由意志でこうやってあなたにお話ししていると思っています。あなたもあなたの自由意志で僕のつまらない話を聞いてくださっていることでしょう。大いに感謝しています。これは本心です。しかし一方で、僕たちのこの行為は、実は全く別のところから働きかけられて起きているのかも知れない、という可能性を否定することはできないのです。遺伝子、あるいはミーム――これは実証されているものではありませんが、知識や情報の遺伝子とお考えください――そういったものの仕業で、僕の口は勝手にこのような話をあなたに喋っているだけなのかも知れないのです。脳ですか? そうですね、脳に心があると考える一派も存在しますが、ある実験によると人がなにか行動を決断するよりも前に、脳はその動作の信号を身体へと送っているそうです。まあ僕はあの実験方法自体に疑念を拭えない次第ですが――しかし、脳を心と考えるのは些か早計である、という根拠のひとつにはなるでしょう。個体としての人間の外部、つまり環境による影響も無視できません。たとえば今、僕はコートを着ていますがそれはブレザーだけでは到底カバーしきれない寒さが世界を覆っているからです。コートを着ない自由はもちろんあります。ですがこの寒さの中、あえてそちらを選ぶ理由は僕にはありません。僕がコートを着たいと思ったのは、ファッションではなく実用性からなのです。自由の範囲は、環境によって狭められることを認めなければならないでしょう。人間が物理的・三次元的な世界に生きている限り、これがなくなることはありません。四次元的な移動を可能にした未来の人間はまた違う環境に身を置いているわけですが、推測するにそちらでは可能であるがゆえの制限が存在するのではないでしょうか。いずれにしろ、人間がなんらかの突然変異でも起こさない限り、自由意志の有無やその有効範囲については悲観的にならざるを得ないのが現状なのです。我々が神と定義する涼宮さんにおいては、その能力を自覚なさっておられませんから、主体的にはまだ他の人間と同じであると云えるでしょう。無限の力を持ちながら、それを自覚的には操作できない。彼女の力が他人の精神操作には至らない理由はここにあるのかも知れません。しかし涼宮さんではない何者かによって精神が操られているとしたら、自由意志がないことに変わりはありません。そのような世界で、人間は何千年という間、己の自由意志が存在するという幻想にしがみついて生きてきたのです。幻想であるということに、気づかないふりをして。なんと必死で、儚くて、見苦しいのでしょう。それが人間の定義なのだとしたら、人はもっと自分たちが低次の生き物であることを認めた方がよいのではないでしょうか。それを拒否しているのは、理性や自由意志というよりは、本能的な部分であるように思います。誰だって自分に意味がないとは考えたくありませんから。あるいはそれこそが、幻想を際立たせているのかも知れませんね。心は、存在すると信じることによってのみ存在するのです。

「――それで、」
 はい、なんでしょう?

「自分の気持ちが本当に自分のものかわからないから、お前は俺に好きだと云わないのか?」

 俺は、お前が好きだ、と。
 その言葉はまっすぐに僕へ届いて、彼の彼だけの本当の気持ちなのだと、どうしようもなく信じてみたくなった。

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