恋かもしれない

恋にはしないの続き
知っていたけど知らぬふり。キョン視点

 忘れたくても忘れられない高校生活に幕が降りる。この三年間のことを忘れてしまった俺がいたとしたら、それはいつかの改変世界での長門や朝比奈さんのように別人でしかない。単に記憶だけの問題じゃなく、性格も大いに違うことだろう。きっとただひたすら怠惰に過ごすことだけを考えているのだ、その『俺』は。
 こちらから探しにかかれば出会える、たくさんのユカイを知らずに。

 高台にあるこの高校から見える風景には障害物が少ない。短縮しておこなわれた卒業証書授与を終えて、吹奏楽部の生演奏と在校生たちの拍手に見送られながら体育館を出ると、見慣れた校舎の向こうに真っ青な空が見えた。ぐるりと見渡す。雲もなく、景色の障害になる建物もなく、ただ青い。三月にしては空気は暖かくて、ブレザーだけでいても寒くはなかった。自分を含めた人だかり、青いブレザーやセーラーの中に赤い胸花が目立つ。女子はともかく男がこれをつけているのは少し、いや結構気恥ずかしい部分もあるのだが、かといって抵抗するほどのものでもないだろう。したがってブレザーに添えられたその花がどれも微妙に歪んでいるような気がするのはご愛敬だ。
 あちこちから控え目に、すすり泣く声が聞こえる。ハルヒと長門の顔を思い浮かべながら、あの二人はこんなシーンとは無縁だな、と思う。万が一そんな事態になっていたとしたらどんな対応をすればいいのかわからない。それは去年の朝比奈さんの担当だ。
 教室へ戻ると案の定ハルヒはいつもの笑顔で、泣き止む気配のない阪中の背中をばしばしと叩いていた。今生の別れじゃないんだからとか、いつでも会えるわとか云いながらそれでも、触れる手は優しい。入学式当日の態度とは別人だ。変わったのは俺だけじゃない。
 なんともなしに感慨に耽っているとハルヒが俺に気づいて声をあげた。
「キョン、これ終わったら写真撮るから旧館裏に集合ね。あたしは有希を連れてくるから、あんたは古泉くんを呼んできてちょうだい」
「わかったよ」
 わざわざ呼びに行かなくても、自主的に全員集合すると思うけどな。このままあっさり帰れるほど、あの部屋への思い入れは少なくはない。別れを告げに行ってやらないと部室が可哀相だろう。文芸部室の居候として、せめてもの礼儀というものさ。

 最後のホームルームを終えてクラスメイトに挨拶してから教室を出る。一応九組を覗いてみたが古泉の姿はなかった。教室の様子からして、五組よりも早く解散となったらしい。
 まっすぐ旧館へ向かうと、入口あたりに古泉が立っていた。風に茶色い髪が揺れる、その横顔はどこかぼんやりと遠くを見つめている。ハンサムは憂い顔も様になるってか? その実ものすごく子供っぽい一面があることを知っている俺は騙されないぜ。
「古泉」
 声をかけると古泉はゆっくりとこちらへ向いた。胸に咲いている赤い花は微妙に曲がっていて、不器用な指先で安全ピンを刺している姿を想像して少し笑う。ブレザーを脱いでつければいいだろうに。
「はい」
「写真撮るから並べってさ」
「僕が撮りますよ」
 云いながら古泉が歩いてきた。こいつ、今日がなんの日かわかってんのか?
「莫迦、それじゃ意味ないだろ。今ハルヒが――」
 長門に声をかけてから職員室へ、というセリフはその本人によってかき消された。まったく、ハルヒの声は今日みたいな空によく似合う。
「捕まえてきたわよ! キョン、古泉くん、早く並びなさい!」
 振り返るとずんずんと進んでくるハルヒと、捕まえられてきた岡部がそこにいた。こんな問題児を三年間も担当してさぞ気苦労も多かったことだろう。今日からゆっくり休んでくれ。来月入ってくる新入生に、ハルヒみたいな奴がいないことを祈る。
 旧館の前、よく陽のあたる撮影に適した位置にはすでに長門と朝比奈さん――式から参加してくれていた――が立っていた。その間にハルヒが割り込んで二人を抱き寄せる。朝比奈さんがひゃあ、とか小さく悲鳴をあげて、ああなんだかこれも随分久しぶりの光景だな。
 やれやれ。古泉を見ると奴も仕方なさそうに、微笑ましそうにしている。そうだな、この状況で俺たちがすべきことなんてひとつしかない。
 俺と古泉がそれぞれ女子の端に立ったのを確認して、ハルヒが岡部の持つデジカメを睨みつけながら云った。
「いい? 三年間で一番いい笑顔で写るのよ。シメの大切な日なんだからね!」
 そうは云っても、結局いつもみたいな画になると思うけどな。けれどそういうものこそがかけがえないのだと、知っているのは俺だけじゃないはずだ。
 視線だけはずれないようにとレンズを見つめる。笑顔は、自然と浮かんできた。

 ひとしきりそこで騒いでから、五人揃って下校と相成った。行き先は長門の家。個人的にもいろいろと世話になったし、SOS団としてもお邪魔しまくった部屋である。鶴屋さんも交えて鍋パーティをすることになっていたので、長門のマンション近くまでぞろぞろと集団下校だ。と思ったのだが、
「あ、あたしちょっとコンビニ寄ってくから、先行ってて」
 ハルヒが坂を下りきったあたりでそう寄り道を宣言した。どうやら鍋の買い出し(担当・俺と古泉)とは別の用事らしい。ハルヒが裏でなにかを画策するのはいつものことだが、あんまり面倒なことにはしないでくれるなよ。
 というわけで、舞台はスーパーへ移る。

「新鮮な食材はどうやって見分ければいいのでしょうか」
 去り際の団長に、新鮮なものを吟味するよう言いつけられた副団長が、野菜売場の手前でそう呟いた。それは三年間一人暮らししてきた奴のセリフか?
「適当でいい、適当で。色が綺麗なやつにしろ。食われてるのは美味い証拠だから気にするな。あとは重さだな。量が多いに越したことはない」
「……適当でいいと云いながらあなた、注文が多くないですか」
「常識だろ。美味い鍋のためだ、しっかり働け副団長」
 古泉は覚悟を決めたらしく、目の前の水菜に手を伸ばした。そりゃあ、新鮮なものの方がいいに決まってるけどな、
「まあでも、このメンバーで食って不味い料理になることはないだろ」
 やや間を置いて古泉が、そうですね、と返事をした。なんだ、異論があるならいつでも反駁するぞ。食事は気の合う奴とするのが一番美味い、これは規定事項だ。

 長門のマンションに着くとハルヒがいた。本当に、なんの用事だったんだかな。ずいと差し出された手に買ってきたばかりの食材を預ける。
 いい匂いがすると途端に空腹を意識するのは動物として仕方のないことで、そこからはいつも通りの鍋会だ。ツイスターゲームだとか、コンピ研の作ったあれだとか、こうしてるとクリスマスを思い出すな。こんな馬鹿騒ぎはあのクリスマス以降、何度も定期的にやっていた。じゃあ今後はどうなのだと問われれば、この先だって似たようなことをするだろう。二年後には禁酒も解禁になるかも知れない(俺は飲まないがな!)。
 けれど高校生としてこんなふうに騒ぐのはこれが最後だ。こんな青い春、そうそう体験できるものじゃない。悔いのないよう遊び倒してやろうじゃないか。
「お疲れ様です。僕も参加させてもらっていいですか?」
 ハルヒとのツイスターで敗北を喫した俺に、古泉がにこやかにそう云った。いくらハルヒといえど相手は女子なので、いちいち身体に触れることを意識してしまっていけない。だが古泉相手ならそれも気にしなくて済む。
「いいぜ。手足が長いからって有利だと思うなよ」
 承知しました、と、古泉はシートの反対側に立った。

 朝比奈さんの口調がいつもよりおっとりと眠気を主張し始め、時計を確認するともういい時間だったので、卒業生主催の卒業パーティはお開きにする運びとなった。女子は泊まりだ。鶴屋さんが朝比奈さんに付き添い、長門は布団の準備をしているのでハルヒが玄関まで見送りに来てくれた。最後まで騒がしい奴だが、それに安心する俺も大概だ。
「いい? 卒業してもSOS団は不思議を探し続けるのよ。活動回数は必然的に減っちゃうけど、その分密度は濃くなるんだからね。大学が遠いとか関係ないわ。精々団員の心構えを忘れずに、次の活動まで備えておきなさい」
 SOS団は相変わらずな活動を続けてきたし、これからもそうだ。古泉の語るところによるとハルヒを取り巻く情勢は変化しているらしかったが、それが俺たちに影響するようなことはなかった。むしろどうすれば壊せるのかわからないほど、団の結束は強い。卒業なんていうありきたりな別離イベントには邪魔されないくらいにはな。
「これは団長からのプレゼント。大切にしなさいよ」
 ハルヒが俺と古泉の鞄のポケットになにかを突っ込んだ。こんな場面でサプライズがあること自体がサプライズだ。一体なにを賜ったのか気になったが、ハルヒが俺たちを追い出すようなジェスチャーをするのでそれもできない。
 靴を履いて外へ出ると、ドアに手をかけたままのハルヒが大きな眸で俺たちを見上げて云った。
「じゃあね、また!」
 少しだけ、声がふるえていたように感じたのは、三月の夜のつめたい風のせいだということにしておこう。

 騒いだ後というのはどうしたって物悲しくなるものさ。あとの祭り、という言葉もあるわけだし。いやこれは誤用か。
 それでなくてもパーティを主に盛り上げていたハルヒと鶴屋さんがいない男二人の帰り道、うって変わって静かなものである。どうでもいいような、他愛無いことをぽつぽつと話しながら、やはりぽつぽつと、探るように夜の道を歩いた。空を見上げてみるとちょうど進行方向に月が出ていて思わず見入る。太った三日月で、なんだ、コメントしづらいなこれは。
 そうこうしているうちにいつも古泉と別れる十字路に着いていた。薄闇の中、古泉は旧館の入口にいた時のような、どこか焦点の定まらない表情をしている。転ぶぞ。
「古泉、」
「……はい」
 応えた古泉の声は、酷く儚く散った。続けてなにかを云おうとしている雰囲気だったのでそれを待ったのだが、古泉は動かない。なんなんだ、ここまで来て感傷的になられても、俺も対応に困るぞ。
 古泉がなにも云わないので俺が、と口を開きかけて、止まる。なにを云えばいいんだ。この状況に、この瞬間に。言葉を紡ぎかねた古泉もこんな気持ちだったのだろうか。だとしたらお前のとった行動は正しいよ。語りえぬことは沈黙しなければならない、昔の人は巧いことを云ったものだ。
「また、な」
 結局そんなセリフしか出てこない俺はどこまでも一般人だ。
「……ええ」
 その点に関して云えば古泉も同じだけどな。
 俺の背後に街灯がある関係で、古泉の顔は暗い中でもそれなりに窺えた。人畜無害ないつもの笑顔が沈んだように見えるのは俺の気のせいか? それともツッコミ待ちなのか? おそらく一番正解に近いであろう可能性はあえてスルーする。
 やはりなにか云うべきかと逡巡しているうちに古泉が一歩を踏み出したので、俺もそれに倣う。振り向くようなことはしなかった。月を見ていたからな。

 帰り道も、家に着いてからも。一人になっても、考えるのは高校生活の、SOS団のことばかりだった。すべて回想するにはきっかり三年かかるんじゃないかと思う。それほどに、とにかくいろいろなことがあった三年間の出来事が、スライドショーのように次々と浮かんできた。記憶はどれも鮮やかで、曇りがなく、温度と実感を伴っている。その時の自分がなにを思って、どんな気持ちでその場にいたか、昨日のことのように思い出せる。ひとつひとつが輝いて、それが集まり大きな光になって存在を確かにしていた。揺るぎない、絶対の。全く、いつの間にこんな非日常が自分の大半を占めることになったんだか。
 思い出と表現するにはまだ早い。けれどそれらの『思い出』は、決して色褪せない、誰にも汚されない、守り抜くべき財産だと思った。端から見たらどんなに滑稽だろうと、三年間を過ごしたあの場所はどうしようもなく大切だ。たくさんの表情にあふれた、俺の。俺たちの。
「……っ、ははっ」
 不意に、自嘲するような渇いた声が漏れた。――いま、なにを思い浮かべた?
 記憶の洪水からすくい上げられたのは、古泉の顔だった。
 この三年間の大元を作ってくれたハルヒでも、もはやどっちが制服なのかわからないほどメイド姿が馴染んでいた朝比奈さんでも、初対面の時とは別人のように成長した長門でもない。いつまで経っても困ったみたいにしか笑えていない、不器用な古泉の笑顔だった。張り付けた笑顔の形の仮面ではない。あれを看破したあとに現れる、本物の古泉の顔。
 美少女揃いの団にいて、思い出すのが野郎の顔かよ。どうしちまったんだ俺。もっといろいろ、それこそ非日常どころか非現実なあれこれがあるだろうが。ハルヒの百万ワットの笑顔でも、朝比奈さんの豊かな胸でも、俺を刃から守ってくれた長門の蹴りでもない。部室でボードゲームをしている時にちらりと覗かせたような、平々凡々とした時間の、なんでもないような顔がどうして浮かぶんだ。
 ――そんな自問自答が無意味であることになんて、気づいている。ずっと前から。

 俺は、古泉のことが好きだったんだ。

 本来ならばあまり認めたくないはずのそれは、口惜しいくらいにすんなりと受け入れられた。
 ここでいう『好き』は別に、告白してお付き合いをしてどうこうという類のものではない。ない、と、思う。あるいは百歩譲ってそういう意味を含んでいたとしても、それだけで済ませられるような、わかりやすい図式にあてはまる話ではない。
 古泉の俺を見る目が、どうにも形容しがたい、言葉にするのは些か躊躇われる熱を孕んでいることがあった。けれど古泉は視線に篭めるだけでなにも云わない。俺の方から訊くこともない。古泉はきっと気づいていないだろう。自分の眸に熱が揺らいでいたことにも、俺がそれに気づいていることにも。
 だから俺も、それをずっと見過ごし続けてきたんだ。それが望まれた状態なら、そうしていてやろうと。ああ、でも。

 云えばよかった。俺を好きなんだろうとでも、なんだったら俺の方から、お前が好きだとでも云ってやればよかったんだ。
 そんな均衡の崩し方でこれまでのすべてがだめになってしまうような関係ではないのだから。お前はそれが怖くて最後まであんな物欲しそうな顔をしながらなにも云わなかったんだろうがな、この三年間は時間的価値よりも長くて密度が濃くて意味が大きくて、そんなことで簡単に壊されてしまうようなものじゃない。俺はお前のそんな性格を知ってるし、自分が案外図太いことだって知ってるんだ。神様に見初められる程度にはな。だから大丈夫だったのに。――神様。ハルヒ。
「ああ……そういえば」
 長門の部屋を出る間際、鞄になにか突っ込まれたんだった。いつも爆発しそうなエネルギーを駄々漏らしにしている顔が歪んで泣き出しそうなのを隠すような勢いに押されて、言及せずに帰ってきたのだ。
 鞄のポケットに手を入れてその「プレゼント」を引っ張り出す。ああ、ハルヒがコンビニに寄ったのはこれだったのか。データが数分で現像できるなんて、最近の技術は本当にすごい。確かにこれは紛れもなくプレゼントだ。云われなくても大切にするさ。
 それにしても、やっぱり相変わらずの顔だ。ハルヒも、長門も、朝比奈さんも。古泉も。

 ――好きだ、と。
 もしも伝えていたとしたら、こんな息の詰まるような気持ちにならずに済んだのだろうか。

 すっかり染みついた習慣により部屋に戻ってすぐハンガーにかけた、もう袖を通すことのないブレザーの青が、じわり、滲んで視界を覆った。

恋をしている

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