古泉が猫
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彼に合い鍵を渡すような関係でいてよかった、と心から思った。もちろんそんなことはずっと前から思っていたけれど、今回はそういう話ではない。
今の僕では鍵を開けるどころかドアノブすら回せないだろう。こちらから呼んでおいて来てもらったのに居留守だなんて、非道にもほどがある。
目が覚めてすぐに異変に気づいた。というか気づかない方がおかしい。いつもとはあらゆる感覚が違っていた。なにかが起きた、けれどこれは閉鎖空間とは関係がない、別の現象だ。十六年間の、長くはないがそれなりに密度はあったはずの人生で感じたことのない違和感があった。一体なにが。とりあえず身体を起こそうとして手をついて、視界に入ったそれに目を瞠った。
白く長い毛足の美しい猫の手だった。
なるほど改めて考えてみればやけに掛け布団が重いのは猫になってしまったからかそれじゃあ仕方がない毛布というのは実は結構重いし人間サイズだし猫の身体には負担であるに違いないところでさっきからなんだか顔がむずむずするのはひげが布団を掠めるからだろうか――などと思考を逃避させている場合ではない。
猫になっていた。完全に。ちょっと猫耳が生えたとか――猫耳が生えるのを「ちょっと」の一言で済ませるつもりはないが――そういうレベルではない。猫である。ぴょん、と人間にあるまじきオノマトペでベッドから飛び降りて玄関にある姿見を見てみたが、普段の自分の面影などどこにもなく、映っているのは白い猫だ。第一そこへ向かう時点で視点が普段よりも低すぎた。ほとんど這っているようなものだった。試しにア、と声を出してみても、実際に聞こえたのは予想通り、猫の鳴き声。完全に猫の姿になってしまっていてよかったのかも知れない。いつもの自分からこんな声が出たとしたら居たたまれない。
さて、これで自分が猫になってしまったという悲しい現実は把握できた。ただの幻覚幻聴錯覚の類であるならば僕もせっかくの休日を潰して精神科へ行くのもやぶさかではないが、残念ながらその可能性はほぼゼロだろう。科学的証明が不可能な事象が、一人の少女の願望によって容易に起こり得ることを僕は知っている。……やはりこれは涼宮さんの力が働いたものと見做してよいだろうか。それにしたってなぜ僕が猫に。ここ数日のことを思い返してみても涼宮さんが猫やペットの話をしていた記憶はないし、涼宮さんが猫を欲しがっているとしても僕が猫になる必要はない。というか認めたくない。異議あり。
と、そこで思い出す。今日は団活動のない休日で、彼が部屋に来てくれることになっていたのだった。なんという幸福。のんびりと平和な一日を堪能しようと思っていたのに、今の自分は猫である。これはどんな試練なのですか神さま。彼は何時に来ると云っていた? たしか昼頃だと――
振り返っていまややたら高い位置にあるベッドサイドの目覚まし時計を確認するのと同時に、ドアチャイムが鳴った。
どうしてこんな時間まで呑気に寝ていたんだ僕は! 昼頃に大事な来客があるというのに十一時半に起きるって、それはもう出迎える気がないとしか思えない。猫なので寝ていたという言い訳で赦していただきたい。例えもっと早く目が覚めていたとしたって、なにか有効な対策を思いついたかといえば僕の脳は理系勉学に特化しているのであまり期待できない。
半ば途方に暮れながらもとりあえず玄関へ向かい、結局そこでまた途方に暮れた。この薄いドアの向こうにはおそらく彼がいるというのに、鍵を開けて出迎えるどころか返事ひとつできない。ドアを引っ掻いてみたが鋭い爪が傷をつけてしまいそうでやめた。そうこうしているうちにもう一度チャイムが鳴り、それから控え目にノックする音。
「古泉?」
ドア越しに聞こえたのは猫の耳で聞いても彼の声だ。どうしたらいい。しかし猫の足で地団駄を踏んでいる僕とは違い、彼は非常に有効な解決法を持っていた。合い鍵である。渡しはしたものの使われるような場面がなくてそのままだったのが、こんな緊急事態のために初めてその役目を果たしたのだ。
感慨に浸る間もなく彼がそっとドアを開け入ってきた。ああ、自分がドアチェーンなど使用しないずぼらな人間で本当によかった。
「寝てんのか? こいず」
み、の一音は飲み込まれてしまって聞けなかった。好きな人に名前を呼んでもらったら元に戻るというメルヘン設定があるかもしれないのでちゃんと呼んでもらえませんかフルネームで、と伝えることもできない。
彼は僕を見たまま動かない。金色になった僕の目を見つめる目が遠い。いつもは少し上から見下ろしている彼の顔が、今は首が折れるんじゃないかと思うほど見上げた先にある。せめて視線をしっかり受け止めようとじっとしていると彼が一言、
「……猫?」
さすが簡潔な状況把握です。こうなればもう、彼の驚異的な柔軟性に期待するしかない。頷いてみせると眉を顰められた。
「なんで猫が……おい、古泉!」
靴があるんだからいるんだろう上がるぞ、と彼は宣言して部屋に上がり、ずんずんと廊下を進んでいく。当たり前だ、まさか家主が猫になってしまったなどとは通常の思考ならば考えようがない。おそらく彼は、僕が拾ってきたかなにかしたためにこの部屋に猫がいるのだと考えたのだろう。しかし困ったことに、あなたの目の前にいる猫が古泉です。
一部屋しかない僕の家で当然その部屋には誰もおらず、彼の眉間の皺はいっそう深くなる。試しに彼の足元にぺたぺたとまとわりついてみたのだが、彼はなんとも思っていないようだった。部屋の中を見回している彼の視線を追いかける。学校指定の鞄の中には筆記用具が入っているが、爪と肉球しかないこの手でそれを扱えるとは思えない(それ以前にお前の字は汚くて読めんと常々云われている)。携帯電話のメール作成画面での文章伝達は可能だろうか。ボタンが非常に押しにくそうだが、紙とペンよりはまだ可能性があるだろう。
そう考えてテーブルの上に置きっぱなしだった携帯電話の元へ向かおうとしたところで、着信音が鳴り響いた。僕のものではないし閉鎖空間も発生していない。音は彼のパーカーのポケットから聞こえていた。
「古泉か? どこ行ってんだあいつ」
文句の予行演習をしながら携帯電話を取り出した彼が、ディスプレイを見て不思議そうな顔をした。それから通話ボタンを押して対応する。
「もしもし。……え? あ、ああ、そうだけど。猫? ……は? なんだってそんなことに」
彼の声は驚きつつも穏やかだ。おそらく電話の相手が信頼できる人物だからだろう。なんとなく見当はつくので、おとなしく通話が終わるのを待つ。
「……あー。なるほど、わかった。別になにもしなくていいんだな? うん、わかった。助かったよ、ありがとう」
じゃあ、と電話を切った彼がその場にしゃがんで、一気に顔が近くなった。それでも見上げなければ見えない彼の顔はどこか呆れている。
「お前、古泉か」
語尾は一応疑問系だが疑っている様子ではない。さすがだ。肯定するためににゃあ、と大きく鳴いてみせると、彼は盛大な溜息をついた。
「そうか、やっぱりそうなのか。――ちなみに今の電話は長門からだが」
ええ、そうではないかと思っていました。
「お前が一人暮らしだってことを知ったハルヒが、一人は寂しいだろうから猫でも飼えばいいと思ったんだそうだ。お前が猫になったら意味がないだろうが、まあ明日までに戻るらしいからちょっとした思いつき程度のものだったんだろう」
明日までの辛抱だ我慢しろ、とのお言葉にもう一度鳴いて応える。そのくらいしか取りうる手段がないのがもどかしい。言葉で伝えられない。いつもみたいに触れることもできない。文字通りの意味で本当になにももてなすことができませんが帰らないでくださいここにいてくださいと、どうすれば彼に伝えられるのか。
しかし悶々と考えているのは僕だけのようで、彼は状況がわかったらそれでもういいらしく、お世辞にも綺麗とは云えないこの部屋をもう一度見回して転がっていた雑誌を数冊手に取り、ソファに座った。広めの二人掛けのソファだが、彼はいつもの左側に陣取り、膝の上に雑誌を乗せる。僕はいつもの右側に飛び乗って彼を見た。彼はなにも云わなかった。彼はすぐには帰らないでここにいてくれるようだとわかって、雑誌を捲る彼の手に顔をすり寄せる。彼はやはり、なにも云わなかった。
読むというよりは眺めるようにして一冊を捲り終えた彼が、それをローテーブルに放ってふう、と溜息をついた。
「お前が喋らないと静かだな」
ええ実は僕もそう思っていたところです。あなたは内心ではともかく、独り言をぺらぺらと喋るような人ではありませんからね。ところでそれはどういう意味ですか。やはり普段の僕の蘊蓄は鬱陶しいということなのか、それとももっと僕に都合のいい解釈、例えば気の置けない間柄なら沈黙も苦にならないとかそういった。
「こういうのも、悪くない」
ぽつりと落とされた言葉に首を伸ばして顔を覗き込むと、彼がその手を翳して僕の頭から顔までを覆うように撫ぜた。視界が閉ざされるその一瞬、彼がふっと緩むように笑んだのを僕は見逃さない。
その後しばらくそんなふうにして過ごしていたのだが、僕も彼もいつの間にか寝入ってしまったらしい。再び目が覚めると僕は人間の姿に戻っていて、バスタオル(爪がソファを傷つけるからと彼が洗面所から持ってきた)を身体に巻き付けて妙な姿勢で座っていた。今にもずり落ちそうで慌てて姿勢を正しつつ、そういうことが問題なのではないと彼へ向くと、ちょうど気配で目を覚ましたらしい彼とばっちり視線が合った。
一秒。二秒。三秒。固まった空気を壊したのは盛大に吹き出した彼だった。
「お前、その、寝癖!」
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