ホワイトデー
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俺は疲れていた。俺だけじゃなく古泉も疲れているはずだった。メランコリーだった先月前半とは違いハルヒは今日のことをあからさまに楽しみに、そわそわしていたから、閉鎖空間は発生していないだろう。事実古泉がバイトで早退することもなかった。学年末試験も終わって――結果なんて野暮なことは訊かないでくれ――もはや惰性だけで毎日ちんたらとあのコンクリートで整備された眩暈坂を登っているわけだが、実際は月初めにハルヒと長門と朝比奈さんから要求された無理難題を達成するために古泉と共に奔走していたので、とてもじゃないがモラトリアム期間を過ごしている気分じゃなかった。ハルヒの傍にいる限りそんな呑気な時間はないことくらい学習しているが、長門と朝比奈さんまでがそんな属性を身につけはじめているのは早々にどうにかして阻止しなければならない。アンドロイドと未来人から、ハルヒほど無茶ではないが二つ返事で引き受けるには躊躇ってしまうものを要求された時は、思わず古泉と顔を見合わせてしまったものだった。おかげでその後、俺たちはデパートやホームセンター、俺の部屋、ショッピングモール、鶴屋山、ゲームセンター、例の川沿いの並木道、古泉の部屋、などを駆け回ることになったのだ。互いの部屋でなにをしていたのかは不問で頼む。
そんなわけで、ホワイトデーだった。
俺と古泉が、凡人と理系特進というエンタテインメント性に欠ける脳をフル使用して仕掛けたプレゼントは奇跡的に女子団員を満足させるに至り、ハルヒはこの上なく上機嫌だった。長門は手に取ったそれを穴が空くほど見つめていたし、朝比奈さんも何度もお礼を云ってくれた。そういえば贈り物をして礼じゃなく誉め言葉をもらったのは初めてだな。ハルヒよ、団員としての自覚がどうこうと誉められるのも悪くはないが、一言でいいからありがとうと云ったらどうだ。
そんな感じで男子だけが疲れるイベントは終了し、俺と古泉は胸を撫でおろし、そして古泉の部屋にいた。
「云っておくが俺はここのところの準備で結構疲れてるんだ」
「もちろん存じ上げておりますよ。一時間もかかりませんから、少しだけ寄っていってください」
というのがいつもの分かれ道でのやり取りだった。古泉は珍しく強引で、その勢いに引きずられるようにして結局部屋まで来てしまったのだ。
「適当に座っていてください。いま準備しますから」
なんのだ。ツッコミは心の中に留めて、定位置になっているローテーブルの窓際に座った。一時間もかからないとか準備とか、なにをするつもりなのか薄々感づいてはいてもあえてスルーする。だいたいバレンタインの時は無言の圧力に降参してチロルチョコを投げつけてやったんだ。一個三十円のぷれみあむの方だ。それでこいつはこっちがちょっと引くほど喜んでいたのだから、よもやホワイトデーにもなにかやらかそうだなんて考えるわけもない。
「お待たせしました。どうぞ」
しかしそう考えていたのは俺だけだったようで、古泉的にはホワイトデーも逃してはならないイベントだったらしい。まあ、学校では見せない古泉の性格を考慮したら妥当だろうが、それにしたって。
「一応訊くが、手作り……か?」
出されたのはティラミスだった。白く丸い皿に四角くカットされたティラミス、乗せてから振りかけたらしいココアパウダーは適度に皿の上を彩っていて、コンビニのカップティラミスくらいしか見ない身にはおしゃれに見える。上に乗っている葉っぱは、ミント、か?
「アマレットは少なめにしておきましたからご安心を。お湯が沸いたらお茶を淹れますね」
にっこり。楽しそうな笑顔だなあ副団長殿。これが演技ではなく本当の本当に素だというのだから恐れ入る。というか恐れおののく。
謎の転校生の正体は乙女思考の家事好きだった。最初にそれを知った時はどうしようかと思った。しかしその時点で既に俺と古泉はただならぬ関係にあり、受け入れざるをえない状況であったため、つっこむタイミングを逃してしまったまま今に至る。本人は楽しそうだし害があるわけでもないからいいかと思う程度には俺も沸いているということだ。
「バレンタインの時は忙しくて手作りできなかったので、今回こそはと思いまして」
「今回だって忙しかっただろう」
「確かに今回は涼宮さんたちのためには頑張りましたが、『機関』の方では仕事がなかったのでそうでもありませんでしたよ。スポンジから作ったわけではなくサヴォイアルディを使っていますし」
今にもサボイなんとかの解説を始めそうな古泉を、やかんの音が呼び出した。いそいそとコンロへ向かいながらロシアンティーでいいですかと訊かれたが、もう好きにしてくれとしか返しようがない。
「お口に合えばよいのですが」
ロシアンティーとやらを差し出しながら今更そんなことをぼやく。少なくともコンビニのティラミスよりは美味いだろうよ。
しかしティラミス、ティラミスとはね。単に古泉のレパートリーの中で得意だという理由によるセレクトなのか、それとも。
「――お前、」
「はい?」
畜生、小首を傾げるな。お前がそんなことしても気色悪いだけだ。かわいいなんて思ってない!
仮にもこういう関係の相手にティラミスを出す意味をわかっているのかと問い質そうとして、やめた。肯定されたら家に帰れなくなるからな。
銀色のスプーンは軽い力でティラミスに沈んでいく。心配そうに俺の顔を覗き込む古泉に美味いよと素直な感想を述べてやると、古泉はあたりに花を撒き散らさんばかりに笑んでみせて、それはもう、かわいいと形容するしかないような笑顔なのだった。
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