言葉よりも雄弁な

喧嘩する話

 がっ、と自分の拳が目の前の綺麗な顔に命中した瞬間、狙ったように部室の扉が開いた、俺はそれを視界の端で認識した。扉が開き第三者が現れたことを。その人物が、おそらくあまり、この場にいていい存在ではないことを。
 扉の前に立ち尽くしたハルヒは今まで見たこともないくらいに目を大きく見開いて、俺を――俺たちを見ていた。
 構うものか。
 今にも適当にでっち上げた弁明を始めそうな、片頬を赤く腫れ上がらせてもなお微笑を湛え続ける古泉に向き直り、俺は躊躇いなく二撃目を振り下ろした。赤い頬へともう一度。ついさっき感じたのと同じ感覚が、微かな麻痺を伴って拳に伝った。
 がたん、とやや乱暴な音がしたのは、打たれた古泉が咄嗟に長テーブルに手をついたからだ。その肘がぐしゃりと俺の鞄を潰す。くそ、弁当箱割ったりしてないだろうな。
 古泉は顔をあげ、俺ではなくハルヒの方を向いた。ハルヒは依然、扉の前に立ち尽くしたまま。その背後に見える二つの影は長門と朝比奈さんだろう。
「大丈夫ですよ」
 目的語が抜けているのでなにが大丈夫なのかさっぱりわからないせりふを古泉がハルヒへ投げた。いつもの、なにを考えているのか読めないイエスマンスマイルを浮かべて。
 ――違う。こいつがなにを考えているのかなんて、それこそ考えなくたってわかる。ハルヒのことを考えているはずだ。いつだって古泉の言動の中心にはハルヒがいる。それ以外の人間、たとえば俺なんかにも気を遣うことはあっても、それはあくまでハルヒの二の次だ。
 古泉は、ハルヒを通して、俺を見ている。
 そう思い至った瞬間、全身が沸騰したかのように、一気に体温が上がるのを感じた。
「どうした、古泉」
 ハルヒへ笑顔を捧げたまま、俺へは一瞥も寄越さない古泉へ声をぶつける。俺の声が平時と違うのに気づいたのだろう、古泉がゆっくりとこちらへ向いた。視線が合う。自分が、笑っているのがわかる。
「『涼宮さん』の前じゃ、『鍵』に手は出せないか?」
 瞬間。
 背中に走った鈍い痛みに反射で目を瞑り、再び開いたら、見たこともないような目をした古泉が至近距離で唇を歪めていた。こいつのこんな顔は見たことがない。一度見たら、忘れられるはずがない。どくどくと心臓が脈打つのは、正直に云おう、興奮しているからだ。
 古泉の、それは獲物を狩る獣の眸。
 古泉はネクタイの結び目ごと俺のシャツの襟元を掴み上げて、背後にあった本棚に押しつけたのだった。棚がちょうど肩胛骨の下にぶつかって、その一点だけが異常に痛い。なんだか足元が覚束ないのは、ああ、持ち上げるようにして押しつけられているのか。
 古泉はその状態のまま、下から俺を睨めつけている。ぎらついた獣の目で。
 ――そんな、顔をさせているのは、俺なのか。
 他の誰でもない、ハルヒでもない。俺が、古泉のこんな顔を引き出したんだ。
「――あなたこそ」
 古泉が、ふるえる声で吹きかけるように云った。
「僕の正体を知っていて、そんなふうにおっしゃる?」
 そのふるえは、笑いだ。古泉は可笑しくて仕方がないのだ、俺のとっている言動が。愚かにもライオンに飛びかかろうとしている鼠にでも見えているのだろうか。
 古泉に対して拳で勝てると思ったわけではない(口ではもっと勝てないが、それはまた別の話だ)。力で勝とうとして手をあげたわけじゃない。『機関』とやらが冗談のひとつも通じなさそうな、やるならとことん要らんことまで極める組織だというのは十分に知っている。古泉も、凡人には不要なほどの「職業訓練」を受けているはずだ。その中に武器を伴わない接近戦の心得があったとしても、なんら不思議なことはない。
「僕が本気でかかれば、あなたなんて左手一本で意識不明にして差し上げられますよ」
 そうなんだろうな。脅しでもなんでもなく、この言葉はただの事実を示しているのだろう。せめて手首を捻る程度にしておいて欲しいところだが。
 というかお前、そんな物騒な発言をしていていいのか、そこにハルヒが――
 扉を見やって、はじめて誰もいないことに気づいた。朝比奈さんがぺたりとへたり込む様子はなんとなく感じていたから、ハルヒと長門が保健室にでも連れて行ったのだろう。喧嘩なんて、女子が見ても心温まるものではない。このまま片が付くまで戻ってこなければいいのだが。
「余所見をする余裕がおありで?」
 地を這うように低く、餓えたように掠れて、腰が砕けそうなほど艶めかしい声で古泉が囁いた。同時にずっと胸元を圧迫していた腕が離れ、解放される。制御されていた血の巡りが正常な動作を取り戻して、全身がぴりぴりと痺れた。背中にもまだ痛みが残っている。
 けれど、そんなものは、全くもってどうでもいい瑣末なことだった。
「お前こそ、まだハルヒのことを考えているんじゃないだろうな」
 古泉が、にいと緩く口の端を上向けた、それが一時停戦解除の合図だった。

 もはやなにが引き金だったのかも思い出せない喧嘩が落ち着くと(互いに気が済んだので落ち着いた)、古泉の優秀な脳はようやく現実を意識し始めたのか、呆然として零した。
「涼宮さんに、なんと説明すればいいのでしょう――いや、それよりも森さ、ん、に……」
 後半につれ青ざめる古泉の背を叩いて、俺は笑った。普段すかしている奴のいろんな表情を見ることができて、思ったよりずっと上機嫌になっているらしい。
「俺も一緒に行ってやるよ。役には立たないかも知れんがな」
 とんでもないとても心強いですと呟いてから、古泉も堪えきれないといったふうに吹き出して、窓を全開にした心地の好い部室、痛む頬を緩め、ふたりで声をあげて笑った。

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