七夕翌日・よくわかっていない古泉
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「平穏無事が一番だと思いますが、あなたは何かが起きたほうがいいのですか?」
揶揄をできるかぎり押し隠して語りかけた僕への返答の代わりに瞼を伏せ、チェスの勝敗表を引き寄せた彼の表情が、離れない。
七夕の夜は晴れない。そんなありがたくない定石に逆らったのは涼宮さんの力なのか、ゆうべは星が見受けられた。幼い頃に望遠鏡の円で囲って、まるで自分のもののように思っていたベガやアルタイルは涼宮さんのご指名を受け、遥か二十五年と十六年の願いを託された。改めて、つくづく世界はあの無自覚な神のものなのだと思い知る。
そんな七夕から一転、翌日になって朝から忍び寄るようにたちこめていた雨雲は、夜になってついに雨を呼んだ。雨脚自体はごく微弱なものだったが、この雲がある以上は天の川はおろか星のひとつも見られないだろう。
部屋の照明をおとして、ブラインドの隙間から窓越しに空を見上げた。雲は薄く、月の形がぼんやりと透けて見える。それが逆に不気味だった。得体が知れなくておそろしい、それは僕にとっての脅威。
「僕は、彼が、嫌いだ」
湿度過多な空気に包まれて呟いた言葉は真夏のプールのようなゆったりとした重さで響いた。窓から街灯のあかりを拝借しているだけの暗い部屋、そのせりふは知らない誰かの声のように聞こえた。
自分の情動が、外部でつくられて植えつけられただけのものなんじゃないか、なんて、そんな疑念は今更すぎる。彼を嫌い(だと思っていると思い込んでいる)という状態が世界にとって正しいのならば、僕はそうあることになんの異論もない。万物は世界に追従して、神のもとであるべき姿を保つだけだ。それは僕のような存在であっても、『鍵』であっても変わらない。そのはずだ。そうであるべきだ。
写真、映像、そして本人。もう見慣れたはずの監視対象の姿が、なぜか頭から離れない。たとえばチェスの駒を摘みあげる指先。勝敗表にさらりと丸をつける無駄のない一連の動作。一ミリグラムの重さも持たない僕の言葉に鼻を鳴らして、けれど決して突き放しはしないその恐ろしいまでの懐の深さ。
小雨の音を聞きながら目を閉じて、浅く息を吐いた。それに乗せるように、密やかに音を織り込む。
「僕は、彼が、すきだ」
つい先刻の言葉とは矛盾するはずなのに、全く違和感を感じないとはどういうことだろう。――「自己そのものの無矛盾性を証明することができない」? 現代の数学基礎論では証明不可能だが、情報統合思念体においても同様なのだろうか。あるいは長門有希が言及しなかっただけで、彼らならば証明できるのかも知れない。
もしそれが不可能で、自己自身の無矛盾性を証明できないことを証明されたら、僕は僕の中にある(と思っていると思い込んでいる)この相反する情動のようなものを、受け入れることができるのだろうか?
拮抗するさまざまのものが、それでもそれぞれ確かに存在しているのを感じる。
ふと、部室で書いて吊るした色鮮やかな短冊を思い浮かべた。彼は眉を顰めていたけれど、あれを書いた僕の気持ちは嘘じゃない。世界が平和で、僕の心も平穏安寧であればいいのに。矛盾などどこにもなく、僕は正しい感情を享受して生きる。計算高くて無駄のない、美しい世界。ああ、でも。
「十六年は、長いです……涼宮さん」
最低でも十六年間はこの混沌を抱えたまま生きてゆくのだろうかと思うとたまらなく絶望したような気分になって、でもそんなものは三年前からずっと感じているのであり、本来ならばとうに麻痺してしまっているはずなのにまだ感じるということは、つまりこれは生きている痛みとやらなのではないか、と、そんなどうでもいいことを、考えた。
静かな雨を降り注ぐ細切れの雨雲は、とうぶん晴れそうになかった。
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