言葉で血は流せない

どこまでも噛み合わないふたり

 自分がひどく逆上しているという自覚はあった。けれど、自覚があるという、ただそれだけだ。自分の裡にあるものが外へと溢れ出ることを制御できないし、ましてや僕の言葉を受け取る相手を配慮することなどには思い至りもしない。
 きっかけはなんだったのだろう。いつものように(「いつものように」!)彼と中身のない言葉の応酬をしていただけなのに、どこかで僕と理性をつなぎ止めている糸が切れてしまったらしい。ああ、まずい、と思った時には僕の脳は次々と言葉を紡ぎ、声に出して彼へとぶつけていた。
「あなたの言葉の選び方は賞賛に値しますよ。その表情でその声でその言葉を相手に投げかけることが、どれだけのダメージを与えるのか、あなたはきっとすべてわかった上でやっているのでしょう。全く、一般人が聞いて呆れる。とんだ策士ですよ、あなたは」
 彼は僕の手元のトランプを引き抜こうと伸ばした手を虚空に泳がせたまま唖然としている。無骨な少年の手。爪はきれいに切り揃えられていて、それが彼の本質を表しているように思えて無性に精神を逆撫でられた。
 今ならこの爪に欲情できそうだと、状況とは無関係のことを思った。

 目の前にある四枚のカードのうちどれがスペードの五だろう、という思考は古泉の演説によって中断されてしまった。演説自体はよくあることなのでもはや慣れっこになっているのだが、今日は様子が違っていた。具体的にどこがどう違うのかは巧く説明できないが、いつもの『古泉一樹』ではないことだけは確実だ。
 古泉は目を細め、不自然に高揚した声で話し続ける。
「策士だと悟らせないように振る舞っている時点でもう相手はあなたの掌中で踊っているも同然なのです。それすらおわかりにならない? それともその『わからないふり』も作戦のひとつですか」
 まるで酩酊しているようだった。ふたりしかいない場所で『あなた』と云うからには、このせりふは俺に向けられているものなのだろう。けれど言葉は上滑りしてどこかへ行ってしまう。なんとか掴まえようとしても次々に古泉の言葉が降ってきて、なにがなんだかわからなくなってしまう。
 古泉は笑っていた。口元は上向き、声は常よりも高い。
 けれど俺はその表情を見て、なぜか苦々しいものを感じた。それは、唇を切ってしまって口内に血の味が広がる、あの感覚に似ていた。

 彼は、よくわからない、と訴えるような目で僕を見ている。当然だ。僕は今、僕の言葉で喋っている。ほんとうに相手に伝えたいと思っているのなら、伝わる言葉で話さなければいけない。彼が僕の意図を正しく理解してくれる言葉を選んで、それにそぐう表情と声を使わなければいけない。
 だが今の僕はなにもかもが自分のものだけでできている。彼の理解が付け入る隙などどこにもない。
「けれどあなたの迂闊さは、相手がダメージを受けたあとにどう反応するかまでは想像できていないところにあります。よもやすべての人間が、あなたの皮肉をただ笑って流すだけだとお思いですか」
 皮肉。そう、そうだった。会話の中で彼がシニカルなせりふを吐いて、そんなことはよくあることなのに今日はなぜかひどく苛立ったのだ。
 まるで、俺はお前とは違うから、と突き放されたような気がして。
 『鍵』の分際で、自分は無関係だと飄々と云い切れてしまうその態度が理解できなかった。それは僕や彼女や彼女たちを否定しているのと同義だ。
 赦せない、と思った。彼はなにもわかっていない。絶対に、赦せない。
 今や彼こそがこの世界そのものであるというのに。

 古泉は持っていたトランプを裏返したまま机に伏せた。俺も伸ばしたままだった手を引く。うまく間合いを図れない。古泉の中になにか強い感情があることはわかるのに、その正体が見えなくて、俺と古泉の間の食い違いを修正できない。
 このままではだめだ、どうにかしなければと思うのに、どうしたらいいのかわからない。
 なにより問題なのは、古泉の方はこの食い違いを正すつもりがないらしいということだった。相互理解というやつは一方の努力だけでは達成されない。
「だとしたらそれは短絡と表せざるをえません。だって、ねえ?」
 突然、視界が反転した。そのことに気づいたのは背中が硬いもの(つまり床だ)にあたって痛みを感じたのと、蛍光灯を真正面から見てしまって反射的に目を瞑ったからだ。
 どうして俺は急に倒れたんだ? 正面にいた古泉はただ、腕をすいと動かして俺の肩を指一本で突いただけではなかったか?
「逆上した相手にこんなふうに力を振るわれるなんてこと、考えたこともないのでしょう?」
 いっそ優雅なまでの動作で馬乗りになった古泉は俺の肩に手をかけて、そのままぎりぎりと力を込めた。痛い。肩にこんなに痛覚があるなんて知らなかった。
「覚えておいてください。人間には理性があります、けれど同時に、人間は、動物の一種でしかない」

 あっけなくくず折れた彼の肩を掴むと、夏服のシャツ越しに体温が伝わってきた。『機関』で教え込まれたさまざまな『職業訓練』は、実際に使うことはあまりない。いざという時の護身のためという意味合いが強いのに、こんなことに使ってしまった。森さんに知られたら絶対に怒られる。
 彼は打った背中が痛いらしく(椅子ごとひっくり返ったのだから当然だ)眉間に皺を寄せたまま僕を見ている。ここまでされても僕を振り払おうとはしない。どこまでお人好しなんだと思うと自然と笑みが浮かんだ。
 その瞬間彼は目を見開いたが、その理由なんてもうどうでもいい。思考することが鬱陶しい。
「まあ、所詮あなたにとっては世界の終わりすらも蚊帳の外の出来事なのでしょうから、仕方がないのかも知れませんね。けれど一つ忠告させていただくならば、ご自分の身に迫る危険にくらいは注意を払った方がいいですよ」
 囁くと彼はようやく僕がその『危険』であることを理解したらしく、肩を掴んだままの僕の手を押し返すように肩を動かした。てのひらに伝わるその感触にざわりと興奮する。彼が押し返した倍の力を込めると彼は小さく唸ってまた眉を顰めた。
 どうしてやろうか、と頭の中で声がする。
 彼には一度思い知らせてやらなければ。それが彼のためなのだ。
 腫れ上がるくらいに殴ってやろうか。ああ、でも一晩で治らなければ彼女がそれを見ることになる。それは誠によろしくない。
 性的に辱める、という同性相手に対する攻撃とは思えない考えも浮かぶ。彼が泣き叫んだらさぞ清々するだろうと想像して、けれどそれならば徹底的にその行為を達成できるようお膳立てしてからがいい、と思い直す。
 どうやって力を振るうのが一番効果的かを考えながら、もう一方で、どんなことをしたって無駄なのだと知っている自分が溜息を吐いていた。

 俺の上にいる古泉が血を流して、それが俺に垂れてきているような気分だった。
 もちろん古泉は血なんか流しちゃいない。でもそう感じたのだからしょうがない。古泉だっていつか云っていた、わかってしまうのだから仕方がない、と。
 そう、仕方がないのだ。でも今、古泉がこんな話をしてこんな行動を起こした理由がわからない、それは「仕方がない」で済ませていい話ではない。
 なのにやっぱり、俺には古泉のことがわからない。なにを云うべきかどう反応すべきかわからない。口を開いて息を吸ったはいいものの、どんな音を乗せて吐き出せばいいのだろう。
「……古泉、」
 答えを見つけられなくてただそう声をかけると、古泉は笑みの形をしていた顔をくしゃりと歪めて飛び退くように俺から離れた。机の上にあった鞄を掴み、それ以上の声をかける暇もなく走り去ってゆく。
 追いかけることもできず(追いかけて、それから俺はどうすればいい?)身体を起こしてその場に座り込む。頭の中は散らかった部屋のようにぐちゃぐちゃで、どこから手をつければきれいに整理されるのかもわからない。
 打ちつけられた背中と掴まれていた肩に残る痛みが、無言で俺を責めているようだった。

 外面を気にすることもできないまま、傾斜をひたすらに駆け降りる。自分の呼吸が煩い。前のめりになる身体はまるで今の自分の精神状態のようだった。あんなふうに一方的に攻撃されても僕の目をまっすぐに見ていた彼の眸が瞼に焼きついて、僕を解放してくれない。逃げるように走っても記憶の中の彼はずっと僕を見ている。逃げられない、それなのに。
 世界の終わりも、彼女の苦しみも、僕の労働もすべてに関わりがないと嘯くのなら、どうしてあなたは今ここにいるのですか。
 ねえ、神様。
 ……ああ、そうだ。僕をこんなふうに激昂させた彼のせりふは、こうだ。
 「神なんてものは妄想の産物だ」、と。

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