生徒ルキーノと教師ベルナルド
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昼休みの別棟に、生徒たちの喧騒は遠い。
しんと静まっている物理室、ベルナルドは午後の実験で使う器具を確かめていた。どうやらベルナルドが赴任する前に物理を教えていた教師はあまり実験に重きをおいていなかったらしく、器具は埃をかぶったり、正確な動作をしなかったりと不具合が多い。初めこそそれに眉を顰めたものの、不具合を直すことは楽しく、空き時間を見つけては手入れをしていた。
この日もコンビニで買ってきておいたサンドイッチをひとつだけ食べて昼食を済ませ、電流計と電圧計の感度を確かめていた。いつも通りの、作業に没頭できる自分だけの時間、のはずだった。
「なあ、それなにが面白いんだ?」
呼んでもいない生徒さえいなければ。
「面白いよ――とても。法則に倣って運動する現象は美しい」
「ふうん」
教壇ではなく生徒が使う作業台の上に器具を並べて弄るベルナルドの正面、ルキーノ・グレゴレッティが肘をつき、さして興味もなさそうにその様子を見ていた。高校で習うような物理学はとうに頭に入っているので、今更目新しいこともない。生徒である自分がそうなのだから教師にとってはもっとつまらないだろうと思うのに、ベルナルドは厭きもせず、端子を繋ぎ換えたりねじを回したりといった動作を繰り返す。
ルキーノは電流計にも電圧計にも興味がなかったが、それに触れるベルナルドを見るのは好きだった。
すぐ前に自分がいるというのに一瞬も目をくれず、黙々と手元を動かす。雑然とした作業台から必要なものを迷いなく取り上げて作業を続ける動きは滑らかで、見ていて気持ちがよかった。眼鏡の奥で眉を顰めた時、ルキーノからは見えないその手元にどんな不具合があるのだろうか、彼はそれを解消するためにどんな行動をするのだろうかと考えるのは楽しいし、実際その通りに動いた時は妙な満足感を覚える。
ベルナルドは、ルキーノがそんなふうに見ていることなどまったく気にしていないのだろうが。
「あんた、本当に機械弄りが好きなんだな」
「ん、まあね……」
「俺とどっちが好き?」
「電圧を直列で計るのか?」
つれなく断言しながらベルナルドは満足げな笑みを浮かべた。それは電圧計のねじの調整が巧くいったからであって他意はないのだが、ルキーノから見れば面白いはずもない。
そもそも彼はいま自分が誰と話しているのかわかっているのだろうか。ルキーノの記憶が正確なら、ベルナルドはルキーノが入室した時からずっと、ひたすらに自分の手元を見つめていた。声や気配でわかるだろうと思っても、それとベルナルドが顔を上げないことは別問題だ。
「そんなに好きなら、今度メスシリンダーでも突っ込んでやろうか?」
「なっ……」
忙しなく動いていた手を止めて視線を上げたベルナルドに、ルキーノは目を細める。端子を掴もうとしていた導線のクリップが目標を誤り空気を食んだ、そのことがルキーノの機嫌をよくさせた。
「冗談。俺はいい生徒だから、オルトラーニ先生を困らせるようなことはしません」
「いい生徒、の定義を疑うな」
じとりと睨めつけるようにルキーノを見る。自称いい生徒は、遠慮もせずに欠伸をしていた。
「じゃあ俺はこのへんで。まだ昼食ってないんだよ」
「さっさと戻れ。ここはカフェじゃないぞ」
ルキーノが窓際に置いてある電気ポットをちらりと見たのには気づかなかったふりをした。居座り続けられるとも思っていないのか、ルキーノも窮屈そうに縮めていた身体を伸ばして立ち上がる。
「またな、センセ」
女生徒ならば一発でころりと落ちてしまいそうな、ベルナルドにとっては気味が悪い以外のなにものでもないウインクをひとつ飛ばして、赤毛のライオンは背を向ける。
素行不良な優等生がきちんと扉を閉めて出て行ったのを確認してから、ベルナルドは作業の続きに取りかかった。
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