生徒ルキーノと教師ベルナルド。【とある平穏な、】の続き。葬儀での再会
—
雨が降っていた。
大勢の人がひっそりと、静かな声を響かせる。それらは中心からは遠く、波紋のようにルキーノの周囲に存在していた。弔問に訪れる者はみな形式上の言葉をかけ、ルキーノはただ黙って頭を下げる。なにも考えたくないし、考えられなかった。言葉の裏で人がなにを思いなにを企んでいるのかなんて、今だけは。
そうやって、決められた動作だけを繰り返す機械のように弔問客へ対応していたルキーノの目に、なつかしい影が映った。
エメラルドの長い髪と太い縁の眼鏡。折れそうに細長い身体を喪服に包んだ男がゆっくりとこちらへ歩いてくる。手に持った傘には見覚えがあって、見覚えがあることに驚いた。七年前と同じ傘を使っている彼に。七年も前のことをまだ覚えている自分に。
ベルナルドはルキーノの視線に気づくと、困ったように少し笑った。記憶しているものと変わらないその表情に、時間が七年分巻き戻されたような気がして混乱する。ベルナルドは傘を畳んでルキーノに向き直った。
「酷い顔だな、ルキーノ」
「……ベルナルド、」
「ジャンから聞いて、花だけでもと思ってな。もし迷惑でないなら、だが」
「迷惑なんかじゃない。そこに……いるから、あげてやってくれ。あいつらも喜ぶ」
視線で棺を指したルキーノに頷いて、ベルナルドはそっとそこを覗き込む。声を聴くことすらなかったふたりは、けれどルキーノの妻子なのだと考えると他人とは思えず、胸が痛んだ。
「きれいな人だな。ご存命のうちにお会いしたかった」
ぽつりとこぼしたそれは本心だった。事故で顔にも傷がついたと聞いたがそれは死化粧で隠され、死に顔は穏やかそうに見える。隣に並んだ小さな棺の中に眠る少女の表情もあどけなく、二度と瞼を開かないとはとても思えない。
この妻子と並んだルキーノを想像しようとして、失敗した。そんなささやかな光景を思い描けるほど、ベルナルドにとってルキーノは遠い存在ではない。おそらくはきっと、七年前からずっと。
持っていた白い花を遺体に添えて、ベルナルドは棺から離れた。じゃあ、と短い挨拶だけ残して去ろうとする腕をルキーノが咄嗟に掴む。
驚いてその顔を見やると、ルキーノは青ざめた顔をくしゃりと歪めて掠れた声を吐いた。
「まだ、」
腕を強く握る爪の先が白い。
「まだ帰らないでくれ……」
瞬間、跳ねた鼓動には気づかないふりをして、ベルナルドはわかった、とだけ答えた。
許婚だから結婚したけど俺はふたりを好きだった愛してたんだ、とルキーノは早口で云った。少し酔っているのかも知れない。疲弊しているのも明らかだった。
「けど好きだった奴はみんないなくなっちまうんだ。シャーリーンもアリーチェも、……あんたも」
「……俺はここにいるじゃないか」
「俺が惨めだからだろう。笑いたきゃ笑えよ」
「そんなことは思っていない」
「は、どうだかな。あんたはいつも大人ぶって、俺のことなんざまともに相手もしないし、今だって、俺が無理矢理引きとめたから」
「ルキーノ」
語気を強めて呼ぶと、ルキーノは自分の発言を悔やむように眉を顰めた。目をぎゅっと閉じると、表面に張っていた水の膜がついに破れて、頬を滑った。
「ベルナルド、……先生、」
あのころ何度も呼んだ敬称で呼ぶと、ベルナルドが小さく笑った。一瞬だけ躊躇って、自分よりも少しだけ高い位置にある頭に手を乗せる。顔を伏せて項垂れたその頭を撫でてやると、ルキーノは深く吐息した。
「お前の方がよほど立派だよ。奥さんをもらって、子供を育てて。俺なんかいまだに独り身だ」
「……そうなのか」
「そうだよ」
ベルナルドの発する一言一句に対して過敏なまでに反応しているのがわかって落ち着かない。事故と同時に凍りついていたものを、ゆっくりと溶かされているような気分だった。そうやって溶かされた部分と頑なに閉じている部分が混在していて、身動きがとれない。
ベルナルドの教え子だったころ、子供扱いされるのが厭だった。生徒だから、などという表面上の関係を行動原理にされたくなかった。けれどその関係に甘えていたことを今なら認められる。こうやって触れられて甘やかされて、嬉しくないはずなどなかったのだ。
身動きができない、だから動かずにじっとしている。黙っている。ベルナルドもなにも云わないまま、何度も何度もゆっくりと、髪に触れた手を往復させた。
雨はまだ、降っていた。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます