ジャンがベルナルドを殴る話
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ジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテは怒っている。
普段の彼はコーサ・ノストラのカポであることを感じさせない飄々とした人物で、怒りや迷いを無闇に表へ出すようなことはない。ましてや現在ジャンカルロが抱いている怒りは極めてプライベートな事柄であるので、執務中はもちろん、オフの時間であっても、幹部や部下へ漏らすことはなかった。
従って、ジャンカルロの内なる激しい怒りを知る者は一人もいない。
それはジャンカルロにとってありがたいことであったが、特定の一人についてはこの怒りに気づいてもいいんじゃないか、いやむしろ気づくべきだ、と思っていた。これはジャンカルロとその相手との問題なのに、相手はそれを問題とは露ほども思っていないようなのである。そのまま問題は一向に改善される気配がなく、しかしその問題が生じる機会は度々あったので、結果としてジャンカルロの怒りは増幅され蓄積され、本棚の奥の塵のように積もっていったのだった。
あまりにも相手が気づかないので、これを問題視する自分の方が間違っているのかと自問自答してみたこともあるが、どう考えたって己に非はなかった。たとえば百戦錬磨の我らが伊達男にこの状況を説明したとしても、彼は贔屓目抜きにジャンカルロの味方をするだろう。
そうして何度目かの自問自答を蹴りあげたジャンカルロは、状況を打破すべく決意した。
ベルナルドの野郎、次に同じことを云ったらぶん殴ってやる、と。
そして、その時は訪れた。
カーテンの隙間から月明かりだけが差し込むベッドルームにふたりはいた。部屋の灯りはベルナルドが消して、ジャンカルロはそれについてはなにも云わなかった。
さらりと乾いた素肌にベルナルドの手が触れて、そこから体温が上がっていくような気がした。いつもそうだった、ベルナルドの手は魔法のように、ジャンカルロが自覚するよりも早くその身体を暴いてゆく。それは厭な感覚ではなくて、ジャンカルロはふわふわと揺れる意識を取り戻そうとはせず、その状態を楽しんでいた。
そんな愛撫の最中、つう、とジャンカルロの脇腹をくすぐりながら、ベルナルドが云った。
「こんなに何度も懲りずにボスをレイプして、俺はいつかオメルタに殺されるんじゃないか?」
刹那、どこかへ旅立ちかけていた意識が戻り、ジャンカルロは目の前の顔を見つめる。
ベルナルドは笑っていた。苦笑というか、諦念に似た情動の混ざったその表情を見て、ジャンカルロは一気に血の気が下がったのを自覚した。思い返してみればベルナルドはこの言葉を使う時、いつもこんな顔をしていたように思う。
それだけで、殴る理由は十分すぎた。
「――っ!」
シーツの上へ投げ出していた腕を思い切り振りあげて、拳をベルナルドの頬へ打ち込んだ。何か硬い感覚があったのは眼鏡だろうか。一瞬遅れてかしゃん、という音が遠くに聞こえて、硬い感覚はやはり眼鏡だったのだ、自分がそれを吹っ飛ばしたのだということを理解した。
触れられていた部分にくすぶっていた熱など、もうどこにもない。
突然のことにベルナルドは声もなく、ただジャンカルロを見つめている。眼鏡を外すと意外と切れ長に見える眸が大きく見開かれているのは、動揺のせいだろうか。
気づいたのだ。ジャンカルロの怒りに。
当然だ、これだけ眉間に皺を寄せてベッドの上の相手を睨んでいるのだから、いくら鈍くても気づいてくれないと殴った意味がない。興奮のあまり眼球に水の膜が張りそうなことに気づいて、ジャンカルロはどんとベルナルドの肩を突き飛ばした。
衝撃によろめいた相手を無視してベッドを降り、床に落ちていたバスローブを羽織る。この際全裸でなければなんだっていい。
一直線に部屋のドアまで辿り着き、ベッドを振り返ると身体を起こしたベルナルドが迷子の子供のような目でジャンカルロを見ていた。ざまあみやがれ。
「ジャン――」
「命令だ。朝になるまでこの部屋から出るな」
耳に聞こえた自分の声は、マッドドックの得物を想起させるほど冷たかった。
本部内に設えられたゲストルームのうち、自室から一番遠い部屋を選んでそこを一夜の宿に決めた。他意はない、ただの気休めだ。
ばん、と力任せにドアを閉め、勢いのままベッドに倒れ込む。そうやってベルナルドの気配を追いやっても、むかむかした気分は治まらなかった。
それもこれも、なにもかも全部、ベルナルドのせいだ。
彼は自分とのセックスをなんだと思っているのだろう。何度目か知れないその問いのことを考えると悲しくなって、ジャンカルロは無理矢理に眠りの女神を抱き寄せた。
翌日は目が覚めてから、わざとゆっくり身支度をした。シャワーまで浴びてしまって、朝だというのに自分からソープの香りがするのがわかって落ち着かない。コーヒーを飲んでからベルナルドの執務室を覗くと、筆頭幹部はいつも通りに仕事をしていた。
表面上は。
電話が鳴ればそれに対応し、部下が書類を持って来ればサインと指示を与える。それは正しく彼の仕事であり、誰もその挙動には異を唱えない。
だがジャンカルロは一目見ただけで、彼が疲弊しているのがわかった。
例えば電話が鳴ったとき、その受話器へ手を伸ばすのが普段よりもワンテンポ遅いこと。正面に直立して自分を見つめていた部下が背を向けると、俯いて表情を隠すように小さく溜息をつくこと。
莫迦だな。ジャンカルロは内心で笑ってやった。そうしてから、莫迦は俺もか、と思い直す。結局のところベルナルドに自覚がないのならジャンカルロがひっぱたいてでも自覚させてやる他に方法はなく、実際にひっぱたいてやってもまだ自覚しないというのなら、理解するまで懇々と説教するしかない。
説教しても自覚しなかったら別れてやる。
そこまでは莫迦じゃないことを祈りながら、ジャンカルロは電話の王国へ足を踏み入れた。弾かれるように顔を上げたベルナルドが、一瞬目を見開いて、それから細めた。
「――ジャン」
「ハアイ。おはようダーリン、ご機嫌いかが?」
ベルナルドの口から零れた呼びかけに、まるでなにもなかったかのように返してやると、案の定ベルナルドは眉尻を下げて視線を虚空へやった。こういう時に適当なことを云って誤魔化さないことは本来ならば美点だが、ベルナルドの場合は単にそんな度胸がないだけだ。
大体、天井を睨んでもそこに俺はいないぜ?
「ジャンはどうなんだ?」
「質問に質問で返すなよ。俺は安眠できて体調は万全だな。いいことだ」
「そうか。……俺はあまりよく眠れなかったよ」
お仕着せがましい言葉にジャンカルロはまた機嫌のメーターを下げたが、声に出しては「それは困ったことね」と茶化した。部屋を横切り、勝手にコーヒーを淹れてソファに陣取る。
「俺も少し休憩しようかな」
「ドウゾー。つか、ここあんたの部屋だし、好きにしろよ」
ジャンカルロは努めて冷静に告げた。ベルナルドは特に不審に思うふうもなく、コーヒーを淹れてジャンカルロの隣に座る。間を取り持つようにカップの縁を舐めてから、ソーサに置いた。
「ジャン、昨夜のことだけど……」
「んー?」
ベルナルドが横顔の様子を窺っているのがわかったが、ジャンカルロは正面を向いたまま、眸を伏せてコーヒーを飲んでいた。
「……怒った、のか?」
「そう見えた?」
「……ああ」
「せいかーい」
ジャンカルロはコーヒーカップを置いて、情けない声ばかりを出す男の方へ向いた。視線が合うと、ベルナルドは息苦しそうな顔をする。
「……ごめん」
「何が?」
間髪入れずに問い質す。ベルナルドが返答に詰まって、室内に沈黙が降りた。
「……何が?」
念を押すように確かめたが、ベルナルドは答えない。ジャンカルロを見てはいるが、薄く開いた口が声を発する気配はなかった。
はあああ、とジャンカルロはこれ見よがしに溜息を吐いた。ここまで莫迦でよくも筆頭幹部が務まるものだと感心する。本人に自覚がないのだから、手の打ちようがない。自覚させない限りは。
こんなくだらないことで一人悩むのはもう終わりにすると決めていたので、ジャンカルロはさっさと本題を切り出した。
「あんた、俺とする時、いつも一方的に犯してるって思ってるわけ?」
「え……」
ベルナルドは言葉をうまく消化できずに噛み砕こうとする。だがジャンカルロはそんなまどろっこしいことをする暇など与えてやる気はなかった。
「お前は俺とのセックスをレイプだと思ってんのかって訊いてんだよ」
「……あ、」
直截に云い放って、やっと理解したらしい。予想通りの反応にジャンカルロは大きく舌打ちした。自分の語気が強まるのがわかったがそんなことを気にする余裕などない。
「あ、じゃねえよこの大莫迦野郎! 前髪と一緒に脳味噌まで退化してんのか? こんくらい自分で気づけ耄碌じじい! 大体お前……っ」
早口で捲し立てるジャンカルロの両脇に長い腕が伸びて、抱き寄せた。覆い被さるように掻き抱いてぎゅうぎゅうと肩口に頭を押しつけ、何度も首を横に振る。
「ちが……違う、ジャン、違うんだ、あれは、」
「あれは?」
「あれは……俺は、ジャンを一方的に好きでいる時間が長かったから、時々まだ信じられなくて、……夢みたいで」
「ならそう云えばいいじゃねえか。なんだよレイプって」
吐き捨てると、ベルナルドが押しつけていた顔を上げた。髪がぼさぼさに絡まってしまっている。ジャンカルロはふんと鼻を鳴らした。
「だせえオヤジ」
「……ごめん」
「謝って済むならマフィアは要りませんー」
ジャンカルロはベルナルドの腕の中、抵抗も受容もせず動かないまま、胡乱気な視線だけをくれていた。
「どうしたら……」
「キスしろ」
整った顔を正面から見据えて命令した。ベルナルドの表情が怯んだのがわかったが、視線は逸らさない。
ベルナルドがおずおずと手を伸ばして、ジャンカルロの頬に触れる。そのままゆっくりと首筋へ滑らせ、後頭部を支える位置まで移動させてから、ようやく顔を近づけた。
表面を一瞬、すりあわせるだけのキスをする。ベルナルドはジャンカルロの睫毛が落とした影を見ていた。ジャンカルロはベルナルドのその少し伏せられた眸の色を視ている。
くちびるを離す時に感じた呼吸は熱かった。
「ジャン、」
「もっと」
遮って低い声で鋭く要求すると、ベルナルドは言葉を呑んでまたジャンカルロへ顔を寄せた。くちびるを重ねたまま今度はすぐには離れずに、視線を上げてジャンカルロの表情を窺ったりまた伏せたりといった挙動を繰り返しながら吐息を交換する。
体温が混じり合った頃になって、ベルナルドはジャンカルロからそっと離れた。
「もっと」
それを赦さないと云うように、ジャンカルロが先と同じ調子で再三命じる。一瞬の間を要して漸う言葉の意味を理解したベルナルドは、両手でジャンカルロの頬を包んでぶつけるようにキスをした。
触れ合わせたまま、すぐに口を開く。舌を伸ばせば抵抗なく受け入れられて、好きなようにその中を這い回った。あとからあとから溢れてくる唾液を躊躇いなく流し込むと、ジャンカルロは眉根を寄せてそれを嚥下した。
ぐちゃぐちゃと品のない音が聞こえて、ジャンカルロは腰のあたりが疼くのを認めた。所詮俺もこいつと変わんねえな。そう思っている間にもベルナルドの舌は歯列をなぞり、上顎を確かめ、ジャンカルロの舌を絡め取ろうと動いている。
もう、いいか。
見ればベルナルドの頬はすっかり赤く、閉じた目尻は震えている。キスの合間を惜しむように息継ぎする音が、ひゅうと何度も聞こえていた。
ちょっともったいぶりすぎたかな、と思いながら舌を差し出すと、ベルナルドが目を見開いた。その隙にジャンカルロはにいと笑んでベルナルドの咥内へ侵入する。ベルナルドはすぐにそれに応えて、そうしてようやく、ジャンカルロの欲しかったキスになった。
ながいながいキスの後、息のあがったままベルナルドはまた、ごめん、と云った。
「いいよ、もう。あんたがダメオヤジなのは最初っから知ってるし」
「ごめん」
お前なあ、と呆れ混じりに云うジャンカルロを、ベルナルドは至極真剣な表情で見つめる。
「ジャン、ごめんな、……あいしてる」
「それも知ってる」
笑いながら即答したジャンカルロは身を乗り出してエメラルドの髪を掴み、濡れたくちびるにキスを返した。
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