「体の一部を触れながら10のお題」7.腹。FD「繁栄の果実」ネタ
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「っぐ、う……、っは、はぁ、は……っ」
身体の奥底から沸き上がる悪寒を追いやるように、胃液を洗面台に吐き出した。吐き気は何度も何度も断続的にやってくるので、もう半日ほど水しか口にしていない。吐き出せるものなどほとんどないはずなのに、身体の中身が逆流したような衝動は止まず、喉にはいつまでもいがらっぽい苦みがこびりついていた。
最後にけほ、と咳込んで、克哉は洗面台から手を離した。
そもそも吐き気の原因が全くもって理解不能だ。己の身が新たな生命を宿すことはありえないし、その相手が自分自身というのもありえない。ここしばらくの間ありえないことばかりが起きているせいで、感覚が麻痺していることは否めなかった。よろしくない傾向だ。人間の柔軟性はこんな方面に発揮されるべきものではない。
だが、彼曰く『お前一人の身体じゃない』という言葉が笑えない冗談だったのだとしても、吐き気がするのは事実だ。克哉はそれだけで気が重かった。もともと身体は丈夫な方で、つまり弱ることには慣れていない。痛みや熱がないことだけが唯一の救いだった。
「本当に……なんで、オレがこんな目に……」
ぶつぶつと呟きながらコップに水を注いで部屋に戻ると、眼鏡をかけたもう一人の自分が、ぱちぱちと開閉を繰り返していたジッポの蓋から手を離し、克哉を見やった。
その表情を見て克哉は驚く。
今し方、上から下へと流れてゆくはずのものを逆転させていた克哉よりも、遥かに具合が悪そうだった。顔は俯いたまま、視線だけを上向けたその眸からは、明らかに普段の光が失われている。きつく寄せられた眉根は、彼が傲慢さを発揮する時とは明らかに様子が違う。不機嫌、不愉快というよりは――、そう、さも不快であると訴えるような。
あまりにもその顔が酷いので、克哉は一瞬自分の苦痛を忘れた。
「お前、どうしたんだよ」
眼鏡の彼は眉間の皺を一層深くし、目を細めて深く呟く。
「お前のせいだ」
「はあ?」
「お前がそうやって何度も嘔吐するから」
「戻してるのはオレだろ。どうしてお前がそんな顔になるんだ」
当然の疑問をぶつけたつもりなのに眼鏡の奥の自分と同じ色の眸に睨まれる。声に出さずとも『このわからず屋』と顔に書いてあった。
「お前、よもや俺とお前が同一人物だということを忘れたわけじゃないだろうな」
「忘れるわけないだろ、そんな大事なこと」
「では、俺とお前が感覚を共有できるということについては?」
克哉は押し黙った。それは何度も聞かされたことだったが、はっきりと感覚の共有を自覚できたことはない。
そんな克哉の胸中を敏く察し、眼鏡をかけた克哉はまたぱちんとジッポの蓋を弄った。嘔吐を繰り返す克哉が喉の苦みを散らそうと何度も咳き込むのを見て、彼は煙草を吸うのをやめたので、そのフリントホイールが弾かれることはない。
「お前はいつも自分の快楽だけに夢中だからわかっていないんだろうが」
彼にしては珍しく早口で言葉を紡ぐので、克哉が反論を挟む隙もない。
「俺とお前は同一人物で、感覚を共有できる。お前が感じているものを、意識しさえすれば俺も感じることができる」
「……ええと、それって、オレが戻す度にお前も苦しくなってるってこと、か?」
やっと導き出した結論には、しかしひとつ条件があった。彼がその口で云ったのだ。『意識しさえすれば』?
「どうして、」
克哉の疑問は、訊き終わる前に舌打ちで遮られる。
「やらなきゃよかった」
ついに自身の行動を否定する言葉まで出てきて、克哉は今度こそ目を丸くした。いつだって、どれだけ克哉が嫌がろうが拒もうが泣き出そうがその手を止めることなどなかった人間が、こんなことで後悔するなんて。
まじまじと見つめる視線から逃れるように、眼鏡の彼はふいと顔を克哉とは反対側へ向けた。その仕草すら珍しくて、克哉はくすくすと喉を震わせる。呼吸の度に喉奥が痺れるように痛むが仕方がない、目の前の男がこんなふうに、いとおしすぎるのがいけない。
「あ……水、飲むか?」
自分がコップを持ったままであることに気づいて、克哉はそれを差し出した。もし同じ負担が彼にもかかっているのなら、気休め程度の効果はあるだろう。
差し出したのと同じ形の手がそれを受け取る。無言でガラスの縁に唇を寄せる。お世辞にも上品とはいえない速さでそれを嚥下する度に隆起する喉仏。薄く伏せられた瞼。
その存在が自分自身であることを忘れてその様子を見ていた克哉の顎が、不意に伸びてきた手に捉えられた。
「え、なに……っんん……!」
油断していた。あまりにも具合が悪そうだったから、よもやそんな展開になるなんて思いもしなかった。彼は衝動を性で昇華する人間だということを(ということは、自分も?)忘れたはずはなかったのに。
熱い舌が、温い水を纏って口内へ忍び込む。零れる、とどうでもいいことを気にすると口を大きく開けるわけにはいかなくて、窄めた唇で少しずつそれを受け入れた。
含んだ水の量だけキスは続いて、呼吸がままならなくて、顎に触れた指が振り払えないほど力強くて、くらくらしてくる。
水をすべて移し終えると、彼は克哉の歯列をゆっくりと舌でなぞってから口を離した。
「なん、だよ……急に……」
「別に」
行為に反してあっさりと克哉を解放したその唇は、赤く濡れて弧を描く。別に、なんて微塵も思っていないのだと無言のままに語る。
荒れた呼吸をゆっくりと落ち着けながら視線を落とした克哉は、ふと相対する腹部に目を留めた。今は肌は見えないが、そこがどんな色をしていてどんなふうに脈を打つのか、克哉は知っていた。
そっと手を伸ばすと、薄いシャツ越しに体温が伝わる。ほどよくついた筋肉の感触が好きで軽く押さえると、それに呼応するようにそこが動いたのがわかった。
「……何もいないぞ」
怪訝そうに吐き出された笑えない冗談に、克哉は答えない。添えた手を滑らせ、今度は胸元で力を込める。
「オレと同じ音がする」
目の前の顔は黙ったまま、ただ、少し困ったように笑った。
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