春の終わり

凛と宗介。ES放送前の捏造

 冬の夜は走りやすい。寮を出た時は突き刺すようだった冷気が、今はロードワークで火照った身体を心地好く撫でてくれる。
 元より人の多い町ではない。冬休みに入ってすぐに帰省した生徒も多く、寮の中ですら普段の賑やかさを手放していた。時折車が通るくらいの静けさは水中に似て、距離と速さ、息の上がり方、脈拍、体温、そういう情報だけに集中して走ることができる。日課のランニングは、自分の調子と季節の移り変わりを知るための時間になっていた。
 ペースを崩さずいつものコースを五周。まだ走れる、今夜は距離を延ばそうと考えながら校門の前を通過しようとしたところで、そこに佇んでいた男に声をかけられた。
「よお」
 背の高い男だった。凛と同じくらいか、あるいはもっと高いかもしれない。帽子を深めに被っていたから目元は見えなかった。
 クラスメイトでも、チームメイトでもない。無視しようかとも思った。ここまでキープしていたリズムを乱されたくなかったし、そこまでして見知らぬ人間と話をする謂れもない。そも、こんな時間にこんなところに人がぽつんと立っているなんて、不審以外の何物でもなかった。
 余計な外野に小さく舌打ちをしたのと同時に、二言目が続いた。
「相変わらず練習熱心だな。オーバーワークは逆効果だぞ」
 今まさに通り過ぎようとした脚がつんのめるようにして止まる。明らかに凛のことを知っている口調だった。けれどクラスメイトではない。鮫柄水泳部の、チームメイトでもない。
 振り返ると、彼の口の端が僅かに上向いているのがわかった。帽子の鍔を持ち上げて、夜の中に顔を見せる。わずかな月明かりと申し訳程度の街灯しかなかったが、それだけで十分だった。
 走っている間は乱れていなかった鼓動がどくどくと加速する。
「ひでえな、俺のこと忘れた? 凛」
 外見は変わった、けれど面影は、見間違えようがなかった。
「……宗介」
 凛のかつてのチームメイトがそこにいた。びゅうと強く吹きつけた夜風に、塩素の匂いが混じったような錯覚に陥る。小学校の頃、佐野スイミングクラブで泳いでいた頃のことが、記憶の底から溢れ出て凛を呑み込んだ。
「覚えてるじゃねえか」
 ざり、と宗介が一歩近づく。音信不通だった五年の間に凛よりも背は伸びたらしい。面白くない。
「日本はどうだ? 夏の全国の結果では、凛の名前は見なかったけど」
「夏は……別にいいだろ、結果見たなら、それだけだ」
 この夏は、凛にとって大きな転機で、かけがえのないものだった。たくさんの人を巻き込み、苦しんで、苦しみから救われた。競泳の成績を残すこととは違う、大切な夏だった。
 けれどそれは客観的に見て褒められた行動ではなかったことくらい、痛いくらいに理解している。目の前の男が、どんな反応を返してくるかということも。
 宗介は凛の頭から爪先までをじろじろと無遠慮に眺め、ふんと鼻を鳴らした。
「まあいいや。俺、年明けから鮫柄に編入するから。よろしくな」
「は?」
「お前と同じように、俺にもいろいろあったんだよ」
 それはこれ以上聞くなというサインに違いなく、正しく受け取ったからには追求はできなかった。
 ひらひらと後ろ手に手を振る宗介を、半ば唖然としたまま見送る。ダウンを着ていても体格のよさはわかった。彼は競泳を続けているし、真剣に打ち込んでいる。隣のレーンで泳ぐ機会は、おそらくすぐに訪れるだろう。
 一歩を踏み出し、ランニングを再開する。大きく吸い込んだ冬の大気が、凛の火照りを宥めるように全身へ巡った。

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