橘真琴は誰にでも優しい

遙にも誰にでも平等に優しい真琴

 橘真琴は誰にでも優しい。
 優しいというのは文字通りの意味だ。ご両親にも、双子の妹弟にも、近所の人にも、クラスメイトにも、先生にも、渚にも、怜にも、凛にも、そして俺にも。橘真琴という男は誰にでも優しい。と言ってもただの高校生だから、同世代の同性と接する時は多少がさつになることはある。それでも真琴の根底から優しさが消えたことは、俺の知る限り、つまり生まれてからこの十六年の間では見たことがない。
 今だって、チャイムが鳴って昼休みになった教室で、購買や中庭へ向かうクラスメイトの流れに逆らって教壇へ行った。背の低い日直の女子が、黒板の上のほうを消すのに苦労しているのが見えたからだろう。声までは聞こえなくても、彼女が真琴に驚いて、笑っているのが見えた。
 誰にでも優しい男が更に甘ったるい姿を持っていることは、たぶん俺しか知らない。ハル、と俺を呼ぶ時、たった二文字の音にあんなにも上白糖をたっぷりとまぶすことができるのだと思い知らされる。身体が大きくなって、声が低くなって、一人称が僕から俺に変わっても、俺と話す時は小さな頃とまるで違わない。兄だとか高校生だとか先輩だとか、そういう上着はどこかへ脱ぎ捨てる。
 真琴の長い腕が上へ伸びて、黒板の文字をやすやすと消すのを横目に、時間をかけて教科書やノートを机の中にしまった。ついでに午後に使う教科書をしまった教科書の上に重ね、短くなったシャーペンの芯を取り替えておく。
 机の端に転がっていた消しゴムのかすを払っていると、真琴が大股で近づいてきた。
「お待たせ、ハル」
 待ってない。机の上を片づけていただけだ。
「屋上行こう? 今日晴れてるし、気持ちいいよ」
 弁当をぶら下げながら歩く廊下は、昼休みが始まってから時間が経っているせいか、人は多くない。外は真琴の言った通りにいい天気で、窓から明るい光が差して校内を照らす。きっと屋上は眩しいくらいだろう。
「渚たちもう来てるかな、待っててくれてたら悪いな。ね、ハル」
 約束などしていないのにそんなことを言う。話しながら俺を見て、目が合って、へにゃ、と眉尻を下げた真琴が、学校の薄い壁に響かないようにこっそりと囁くようにあの声を出した。
「ハル」
 橘真琴は誰にでも優しい。

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