ハロウィン
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「トリックオアトリート!」
昼食を食べ終えた渚が高らかに謳い、手のひらを差し出した。真昼の日差しの暖かさと肌寒い風がせめぎ合う屋上、いつもながら唐突な渚の発言に、ああ、といち早く反応したのは真琴だった。
「ハロウィンだもんな。はい」
にこにこと渡された包みを受け取った渚があからさまに不満を訴える。
「……スルメイカ」
「お菓子だろ?」
「おつまみじゃないかな」
「お酒飲むわけじゃないから変わらないよ」
うーん、と腑に落ちない態度は隠さないまま、新聞紙を開いてスルメイカをかじり始める。もごもごと口を動かしつつ、コンビニのビニール袋からピンク色の箱を取り出した。
「じゃあ、これはお返しね」
箱を開けて中の小袋をひとつ真琴へ渡す。プレッツェルをチョコレートでコーティングしたその菓子はよく渚が食べているものだったが、パッケージに書かれた商品名は見たことがない。
「ありがとう、また新発売?」
「うん、購買行ったらあったんだ。あ、一本ちょうだい」
そう言って、返事を聞く前に真琴が開いたパッケージから中身を一本引き抜く。ぽき、と間の抜けた音が響いた。
「怜ちゃんは?」
ぽきぽきぽき、と口の中を鳴らしながら渚が怜に向き直る。無遠慮に差し出された手を見つめた怜は、ふ、と口角を上げた。
「論理的に考えて、今日渚くんがハロウィンを行うことは想定済みです」
「おおっ、さすが怜ちゃん」
「というわけで、どうぞ」
ジャケットのポケットから取り出したものをそっと手のひらに載せる。小さな袋が三つ、四つ。
「キャンディ。というか、のど飴」
小分けの袋にはレモンや蜂蜜や生姜の絵が描かれ、効能をアピールしている。同じ飴でも、渚がクラスメイトの女の子にあげた、やたら発色のよいオレンジやピンクのキャンディとは正反対だった。
「風邪は引き始めが肝心ですから」
「……ありがとう。はい、怜ちゃんにもお返し」
ピンクの箱からまた袋を出して怜へ渡す。箱の中は三袋入りで、あとひとつが残されていた。
「ハルちゃん、トリックオアトリート!」
順番だと言わんばかりに手を向けられ、まだ弁当を食べていた遙は箸を置いた。
「遙先輩、なにかあるんですか?」
怜が不思議そうに訊く。
「ほら」
後ろの席へプリントを回すような感慨のなさで渡されたものを見て、渚が目を輝かせた。横から窺っていた怜も眼鏡の奥の瞳を瞬かせ、渚の手のひらを見つめる。
「クッキーだ!」
渚が声をあげたのは、それがただのクッキーではなかったからだ。無地透明のビニール袋でラッピングされたクッキーはどう見ても手作りで、しかもかぼちゃやお化けや蝙蝠の形に型抜きされている。真琴に代弁させるまでもなく、ハロウィンのために作ったとしか思えなかった。
「すごい! ハルちゃんありがとう!」
再び弁当を食べ始めた遙の手に半ば強引に最後のプレッツェルの袋を押しつけ、渚はクッキーの袋を宝物のように見つめる。
怜が眼鏡を押さえながら遙へ向き直った。
「は、遙先輩、僕の分は」
「ある」
「本当ですか! ください」
「それはハロウィンの言葉じゃない」
渚がにやにやと様子を見ているのを、怜はつとめて気にしないようにした。
「と、トリックオアトリート?」
「ん」
クッキーを手にして子供のように喜ぶ渚と怜の反応を、遙は満更でもなさそうに確かめる。
真琴は澄んだ秋空を仰ぎ見て、ハロウィンかあ、と呟いた。
夕食の食器を片づけ終えた頃、ぴんぽん、と七瀬家の呼び鈴が鳴った。幼馴染を除くと、普段ならばまず来客などない時間である。
遙は用意していたものを持って玄関へ向かった。 誰が訪ねてきたのかは、引き戸の向こうの影を見ずともわかる。
がらがらと扉を引けば、視界のやや下の方に白い塊がふたつ。
「ハルちゃん! トリックオアトリート!」
一言一句同じ言葉をさっきも聞いた、と昼の記憶を呼び起こされる。渚は小学生と仲良くなれそうだ。お化けに扮した目の前の双子の方がずっとかわいげがあるけれど。
シーツの下から覗く蘭と蓮の顔は、夜でもわかるほどきらきらと高揚していた。その後ろには真琴がついてきて、様子を見守っている。
遙は持っていたふたつの袋を、ふたりの前へ差し出した。
「これをやるから、いたずらはなしで」
四つの瞳がぱっと輝いた。遙が昼休みに渚と怜に、放課後に江に渡したものとは比べものにならない大きな袋に、ぱんぱんに詰め込まれたハロウィンのクッキーたち。くるくると巻かれたオレンジのリボンが贈り物だと主張する。
「ハルちゃんありがとう!」
ふたつの声がぴったり重なって、遙は満足そうに頷いた。
「かぼちゃとお化けが普通ので、猫と蝙蝠がチョコクッキーだから」
「うん。蘭、ハルちゃんのクッキーおかあさんに見せてくる!」
「あっ、ぼくも!」
我先にとクッキーを抱えて双子が駆け出すと、シーツの裾がゆらゆらと揺れた。古民家の並ぶこの町で、西洋風のお化けの扮装はちっとも怖くない。
「転ぶなよ!」
真琴が後ろ姿に忠告したが、きゃいきゃいとはしゃぐ声しか返って来ない。呆れたふうに肩を落とし、遙の正面に立つ。
「ハル、俺も。トリックオアトリート」
それがただ言ってみたかっただけの言葉だということはすぐにわかった。本気でクッキーが欲しいわけではなく、遙とハロウィンのやり取りをしたかっただけ。
遙は玄関の扉に手をついて、すいと身体を近づけた。見上げるようにして真琴に相対し、そのまま。
「ハル?」
動かない遙を訝しんだ真琴は無視し、耳を澄ます。ほどなくして、がちゃんと橘家の扉が開閉される音が聞こえ、あたりは静かすぎるいつもの町に戻った。
遙は首を伸ばして顔を寄せる。掠めたのはほんの一瞬で、互いに目は開いたまま。
「……ハル」
照れと困惑と降参をない交ぜにしたような顔で、真琴はがしがしと茶色い髪をかき混ぜた。対する遙は涼しげにしている。
「なんだ」
「これ、どっち?」
窺うように問われてすぐに答えなかったのは、真琴の分のクッキーをすぐに持ってこなかったのは、遙にとっては紛れもなく。
「さあな」
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