フィナンシェ食べるだけ
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「そういえばさあ」
四角い画面の中に深海の町を整備しながら真琴が言った。たまの光源に頼るしかない理不尽なゲームを進めるには、雑談が不可欠だ。
「このあいだ親戚にもらったお菓子がおいしかったんだよね。フィナンシェっていうんだけど、食べたことある?」
「……ない」
遙は光源を諦め、薄ぼんやりとした画面の中で気まぐれに水道管を施設しながら答える。
聞いたことのない名前だったし、買った記憶も誰かからもらった覚えもない。和菓子ではないだろうが、形や味の想像がつかなかった。
「ケーキか?」
「焼き菓子だよ。このくらいの大きさで、マドレーヌに似てるんだけど……蘭が気に入っちゃってさ」
可愛い妹の名前に隠れようとしているが、話題にした以上真琴も蘭と同じくらいそのお菓子を気に入っていることは明白だった。
さっきまで一緒にいた蘭と蓮は、今は自分たちの部屋に戻ってベッドの中にいる。だからもうとびだせ!しんかい生物を続ける必要はないのだが、惰性でなんとなく続けていた。次に双子にゲームを見せた時、前回よりも町がずっと発展していたら双子のよっつの瞳がきらきら輝くということを、遙も真琴も知っている。
それに加えて金曜日の夜は長い。土曜の部活は午後からだ。
「マドレーヌとは違うのか」
「たぶん。作り方のことはよくわからないけど、形は違ったな。マドレーヌより小さくて長方形だった」
「ふうん……」
水道管を一通り巡らせ終え、遙はコントローラーを床に置く。適当に並べたわりには巧くできたと思った。画面が暗いので、全体像はよくわからなかったが。
「あれ借りるぞ」
そう言って返事を待たずベッドへ乗り上げる。あれ、というのは真琴がベッドのヘッドボードに置いているタブレット端末のことだ。勝手知ったる橘家の中で、調べ物をする時にたまに借りているそれには、遙が希望したアプリケーションもいくつか入っていた。
「レシピ?」
真琴は床に座ったまま、一応確認した。幼馴染の行動は大抵が読めるし、今回はとりわけわかりやすい。真琴にとって、マドレーヌとフィナンシェは似たようなおいしいお菓子という認識で十分でも、彼にとっては捨て置けないのだろう。
「ん。……あ、真琴、そこは空けとけよ、下水処理場建てるから」
「えー、俺ここに駅作りたいんだけどなあ」
それきり、真琴は自分がフィナンシェの話をしたことなど、すっかり忘れ去っていた。
数日後、夜ご飯を食べ終わった頃に真琴の携帯電話が鳴った。クラスメイトか、渚か怜だろうと踏んで発信者の名前を確認し、すこし驚く。
遙が携帯電話からかけてきていた。家が向かいの幼馴染だからといって、四六時中一緒にいるわけではないし、一緒にいない時にわざわざ連絡を取り合うようなことはほとんどない。
「もしもし? なにかあった?」
『真琴、今から来れるか』
声の調子は至っていつも通りで、少なくとも悪い知らせではない。けれど電話をかけてくるということは、遙の基準でいま真琴が必要なのだろう。
「行けるよ。ちょっと待ってて」
ちょっとハルんち、とリビングで声をかけると、じゃあこれ持っていって、とおかずの入った容器を預けられる。いつものことだ。
潮風に包まれた夜の町は静かで、真琴のサンダルの音だけがぱたぱたと鳴っていた。七瀬の家を見上げても、遙の部屋の灯りは落とされている。一階のどこかにいるのだろう。さすがに浴室から電話はかけてこないだろうから、居間か、庭か、あるいは。
答えは勝手口の扉を開いた瞬間にわかった。バターと卵と牛乳の、とろけるような甘ったるいにおいが廊下いっぱいに満ち満ちて、真琴の鼻腔を刺激する。
ついさっき腹十分目まで食べたはずだったのに、別腹が疼いた。
「ハル、なに作ったの?」
台所に立っていた遙はやけに神妙な顔をして、手元を見つめていた。隣に立ち、彼の手元を覗き込む。
「わあ……!」
黄金色のフィナンシェが、白い皿の上、香りと色と温度により焼きたてであることを主張しながら並んでいた。
数日前に食べて気に入ったものとそっくりにおいしそうだった。ただ、ビニールで個包装された市販のものと、遙が作った焼きたてのものでは真琴の中での価値が違う。
「合ってるか?」
「なにが? すっごくおいしそう」
「フィナンシェ。俺は食べたことないから」
「食べてみないとわからないから食べていい?」
「そのつもりで呼んだ」
じゃ遠慮なく、とまだ熱いフィナンシェをつまむ。軽く齧るとほろりと崩れ、口の中に香ばしさが広がった。
甘く、温かい。しっとりとした生地は重くはなく、いくらでも食べられそうな気がする。どこか安心できるような、やさしい味がした。
「おいしいよ」
悲しいことに大した語彙を持っていないので、一番簡単な言葉だけが出てきた。
誤解しようのない言葉を聞いて遙はほっとしたように溜息をつき、自分の焼いた菓子を小さな口で齧る。
「これがフィナンシェか」
「うん。おいしい」
「合ってるならよかった。包むから、蘭たちにも持ってってくれ」
「ありがと、みんな喜ぶよ」
二つ目を手に取る。フィナンシェを食べたのは先日が初めてだったが、形は違えど似たような菓子ならもっと以前から知っていた。同じように黄金色で、しっとりと甘い、貝のかたちの焼き菓子。
「そういえばさ」
小さめの皿にフィナンシェを五つ並べながら、似たような切り出し方を最近聞いた、と遙は内心で突っ込む。確かそう、ことの発端も真琴のこれだった。
「結局マドレーヌとはなにが違うの?」
「ああ」
皿にラップをかける。まだ温かいから密封はしない。ほとんどの材料は家にあるから、橘家に好評だったらまた作ってもいい。これを作るために、遙が買い足したものはひとつだけだ。
「フィナンシェはアーモンドプードルが入ってる」
今まさに二つ目のフィナンシェを齧ろうとしていた真琴の歯が勢い余ってごり、と不必要な音を立てた。
「アーモンドプードル」
「そう」
手の中に残った半分のフィナンシェと遙の顔を交互に見て、真琴はひどく深刻そうな顔をする。遙は次に出てくるであろう言葉になんと返そうか考えかけてやめた。深刻になる要素はどこにもないから適当でいい。
「……犬?」
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