one game

教師忍足と生徒跡部

 多分、今自分の目の前にいる生徒の殆どはこの高校生活を楽しんでいるのだろうな、と忍足は思った。
 同世代で同じ話題で盛り上がり、学校を出れば平和な家庭が待っているのだ。
 安穏とした。

「おっしー、このプリント間違ってるよ!」
「え? 何処や?」
「日付のとこ。書いてある日にちと曜日が違う。これじゃいつ懇談会やるのか判んないよ」
「あ、ほんまや。堪忍なぁこれ曜日が間違うとるねんな。直したってや」
「しっかりしてよ、新米教師!」

 これは悪くない先生生徒の関係だ、と新任教師の忍足は思う。
 ちゃんと話が出来るのは大事なことだ。
 そんな調子で帰りのホームルームを終えた忍足は、教室を出て行こうとした、後ろの方の席でいつも大人しくしている一人の生徒に声を掛けた。

「あ、跡部!」

 跡部はこちらを向く。
 いかにも迷惑そうな顔つきをして、それでも無視はしない。
 優しいんだ、本当は。不器用なだけで。
 そこには面倒を起こしたくないといった意図も多分に含まれていたけれど。

「ちょっと話、あるから。残ってな」

 努めて柔らかく云ったつもりだった。
 しかし跡部はその言葉に何か思い当たる節があったらしく、どこか諦観にも似た表情を浮かべ教室内へ戻った。

「―――で、何だよ」

 忍足は他に生徒のいなくなった教室で跡部を席に座らせ、自分はその前の席の椅子を反対向きにさせそれに座った。
 跡部はいつものように不機嫌そうな顔をしている。
 その目線にも、夏が近付いた今はもう慣れた。

「あんな、俺今からちょっと込み入った話すんねんけど、気分悪くせんといてな」

 張り付いたかのように変わらぬ笑顔。
 それは跡部にとって不快以外のなにものでもなかった。
 そして今から話題に上ることは多分、触れられたくないものだ。
 特に、教師なんかには。

「こないだ、跡部の事で妙な噂聞いてん。俺なんかが口出しするようなものちゃうんやろうけど、でも放っとかれんから」

 来た。
 もういい。どうせ、自分は羞恥心も自尊心も持ち合わせていないのだ。
 話すだけ話してこの場から解放されたい。
 そう決めた跡部は視線で続きを促した。
 それを受け取って、忍足は続ける。

「別に責めとる訳やないから、聞くだけ聞いたって。あ―――でもどこから話せばいいか解らんわ。えっとな」
「いいぜ、俺なんかに気ぃ遣わなくても」

 目の前で、生涯初めて出遭ったであろう問題に困惑する教師の言葉を、跡部は半ば投げ遣りに遮った。
 忍足の動きが一瞬、止まる。
 その間に、跡部はこともなげに云った。

「俺が身体売ってるって話だろ?」

 跡部があまりにあっさりと云うので、忍足はその意味を理解するのに時間がかかった。
 そして言葉の意味を咀嚼するように、繰り返す。

「身体、売って―――るって」
「どうせその話だろ。残念ながら真実だよ、センセイ」

 跡部は自嘲的に笑った。
 もういいか? と残し、その場を去ろうとする。
 漸く正気を取り戻した忍足が一気に捲くし立てた。

「っ跡部! ほんまの話なんか!? お前ほんまに、そんなことしとるん!? 何考えてんねや!」
「煩ぇな」

 跡部は静かに云い放った。
 その瞳は何も映していない。
 忍足の姿も、楽しい空間である筈の教室も、己の感情も。

「俺はずっとそうして生きてきたんだ。今更テメェなんかに干渉されたくない。俺には俺の日常があるんだ。関わるな」

 冷たい瞳ではない。
 冷たいなどという感情は、跡部の瞳には存在していなかった。
 その瞳は何も映していない。

「何云うとんねん! そないな事してええ訳あらへん! ええか、今ならまだ戻れる。俺も今迄跡部がやってきたことには何も云わん。せやからもう止めえや」

 懇願してくる忍足に、跡部は思い切り溜め息を吐いた。
 こういうタイプの人間が一番厄介だ。
 ありもしない優しさをひけらかし助けた気になって、結局はそんなの、自己満足じゃねえか。

「せや、俺に何か出来ることあらへん? 何でもしたる。あれやったら暫らくウチに住んだって構へん。とにかく身売りだけはもう絶対すな。そないなことして何になるん? もっと自分大事にせなあかん」

 ああ、定番の科白だ―――と跡部は思った。
 そんな安い言葉もううんざりだ。頼むから放っておいてくれ。
 元々短気な跡部は段々苛ついてきた。
 その瞳は何も映していない。

「お前の身体はお前が両親から受け継いだ大事なものやんか。何でそう乱暴にするん?」
「両親は居ない」

 跡部の言葉に、忍足は凍り付いた。

「両親は居ない。親戚も居ない。俺にはこうするしか術がない」

 忍足は動かなかった。動けなかった。
 跡部はただ淡々と言葉を紡ぐ。
 その瞳は何も映していない。

「俺はそれで生きてる。もう慣れた。俺はそれでいいんだ」
「あ―――とべ」
「俺にはその手のバックが付いてる。関わらない方が身の為だぜ」
「そんな―――そないなこと」
「忠告はしたぜ。じゃあな」

 跡部はその場をすり抜けようとした。
 忍足は堪らず立ち上がる。
 振り返った跡部は、忍足のその悲痛そうな表情を目にしたが、矢張り―――
 その瞳は何も映していない。

「あかん! 幾ら跡部がええゆうても、俺は止めるで。云ったやろ何でもしたるって。何か―――」

 跡部はその訴える様を無感情に見ていたが、ふと思いついたように唇だけで笑い、鞄を置いて忍足の方へ近付いた。
 とにかく捲くし立てる忍足を低く誘うような声で――実際誘っているのだが――制した。
 その瞳は何も映していない。

「何でもしてくれんのか?」
「云ったやろ! 当たり前や」
「なら」

 跡部はすっと右腕を伸ばした。
 親指と中指で忍足の眼鏡の両端を支え、ゆっくりと外す。
 視界が開けた忍足の前には見た事もない跡部の顔。
 明らかに動揺している忍足を眼の端で眺め、手にした眼鏡の蔓をしなやかに齧り、それから真横に腕を伸ばすと手をそっと開いた。
 眼鏡が床に落ちる音が忍足にはとても遠くに聞こえた。

「お前が俺を買えよ、先生」

 呆然としている忍足の唇を、跡部はなぞるように舐めた。

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