月に叢雲

嘔吐させたかっただけ

 御前試合の後、五人が身を寄せ合った屋敷はまさに廃屋という言葉が相応しく、あちこちが崩れ、破れていた。歩けば床板が軋み、横になればそこが水平でないことを思い知らされるような襤褸屋敷である。どう見ても人が暮らしているようには見えず、それゆえに隠れ家として機能しているとはいえ、少しの風でどこかしらが揺れて音を立てる有様だった。
 辛うじて雨風と人目を凌ぐことのできる程度のその隠れ家で、土方と沖田は寝所としてひとつの部屋をあてがわれた。五人で大部屋に集まっているほうが安全ではあったが、近藤という大きすぎる存在を失い、家と言っても過言ではないはずの新選組からも追われている立場であるふたりを気遣われた結果の判断なのだということは伝わってきたから、素直にその部屋を使わせてもらった。
 押入れにあった薄い布団を二組並べ、横になる。壬生組が新選組に改められ、沖田がセンターの座を獲得してからは屯所の個室が各々に自室として与えられたため、こうして布団を並べて眠るのは随分と久しぶりだった。
「なんだか昔に戻ったみたいですね」
 沖田の声は不必要に明るい。昔というならふたりでは不十分だと、思ってもそう返せるはずがなく、土方はそうだな、とだけ言って同意した。
「疲れているだろう。灯りを消すぞ」
「土方さんもね。……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 ふっと灯りの消された部屋は一瞬で暗闇に支配される。もぞもぞと布団に潜り込む音だけが、この部屋に人がいることを伝えた。

 浅い眠りの狭間にがたがたと鳴る音が届く。土方は覚醒の波に乗り切らないままぼんやりと、隙間風か、と思った。障子が歪んでいてぴたりとは閉まらなかったから、夜風がその隙間を通って音を立てたのだろう。瞼を下ろしたままそう納得して、もう一度眠りの底を目指す。
 だがそれは聞こえてきた声によって遮られた。
 咳き込む篭った音と、ぜえぜえと喉を絞るような嗚咽。聞き違いかと思って耳を澄ませたがそれは断続的に聞こえてくる。
 はっとして目を開くと、眠る直前は暗闇と思っていた部屋の中は存外夜目がきいて様子が伺えた。半身を起こし視線を巡らせて納得する。可能な限り閉めたはずの障子が開き、月明かりが射していた。その光はまっすぐに部屋を通り、隣で眠っていたはずの沖田がそこにいないことを土方に教えた。
「総司」
 思わず零れた声は自分でもわかるほどに震えていた。当然のように返答はない。全身を冷たいものが駆け巡り、心臓が早鐘を打つ。
 土方が嫌だといってもついていくと彼は言った。その言葉を信じていないわけではないが、重いものほどひとりで抱え込もうとする沖田の性質を、土方はずっと前から嫌というほど知っている。
 もつれそうになりながら立ち上がって部屋を出ると、縁側に両膝をつき地面に向けて顔を伏せる影が見えた。姿を認めてほっとする一方で、明らかに様子がおかしいことに対する不安が襲ってくる。丸められた背中はひどく小さく見えて、幼い頃を思い出した。
「総司」
 驚かせないようなるべく小さく声をかけたつもりだったが、目の前の肩は可哀相なほどに跳ねた。ゆっくりと振り向いた顔はいつもに増して青白く、目は狼狽に揺らいでいる。唇は濡れて赤く、そこだけが異様に目立って見えた。
「土方、さん」
 沖田の声は細く掠れている。ゆるく握った拳で乱暴に口元を拭って目を伏せた。
「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」
 口だけで笑ってみせる姿は痛々しく、土方の胸を締め上げた。隣に膝をついて顔を覗き込むが視線が合わない。どこを見ているのか、なにを見ているというのか。
「具合でも悪いのか」
「そんなこと、ありませ……、っ」
 沖田の言葉は咳で途切れた。さっき土方が布団の中で聞いた音だ。喉風邪のときの咳ではない。縁側の縁に手をついた沖田が上半身を地面に突き出し、虚ろに地を睨む。土方が慌てて背に手を添えるとびくりと跳ねて、むずがるように首を振った。
「ぐっ……か、はっ、はぁ……っ」
 ふっくらと形のよい沖田の唇からどろりとしたものが吐き出される。夜闇の中ではっきりとは見えないが、既に何度か嘔吐した後だというのは地面を見ればわかった。口の端から胃液か唾液かわからないものがだらりと垂れたままそれ以上はなにも出てこないが、沖田は何度も喉を鳴らす。
 苦しげな呼吸にあわせて大きく上下する背中を、土方は繰り返し繰り返し撫で下ろした。
「まだ出そうか」
 沖田は答えず、伏せたままただ荒い呼吸を繰り返す。土方は膝を沖田に寄せると縮こまった肩に腕を回し、震える顎を掴んだ。動揺して逃れようと身を捩るのを力で抑える。
「つらいだろう。全部出せ」
 もう片方の手、人差し指と中指を開いたままの口に差し入れ、喉奥に触れる。指を開くようにすると喉に空気が通るのがわかった。ぐ、とまた沖田が唸って、逆流してきたものが土方の指を伝う。
「大丈夫だ、上手いぞ」
 両手が塞がっていて使えないため、撫でてやる代わりにこつんと小さく頭をぶつけた。は、と熱い息が土方の指を包む。喉を刺激されるのにあわせて目に溜まっていた涙がひとつ、雫になってぱたりと落ちた。
 沖田の呼吸が落ち着いたのを確認し、指を引き抜く。唾液が伝うのを見た沖田の視線が指先の動きを追いかけて、そのまま土方の顔へと向けられた。やっと目が合った、と安堵する。沖田は迷子の子供のような顔をしていた。
「気にするな」
 顎から外した手で頭を撫で、髪を梳いてやる。沖田はその手に擦り寄るようにして、すこし顔を傾けた。
 少なくとも眠る前まで、沖田の体調が悪いようには見えなかった。夕食も皆と同じものを食べたし、ひとりで妙なものを口にしてはいないはずだ。身体の不調が原因ではないのなら精神的なものが影響していると考えるのが順当だが、心当たりはあまりに大きく、触れるには繊細すぎる。
「……悪い夢でも見たか」
 土方の問いかけに、沖田は静かに顔を横に振る。
「本当に、なんでもないんです。こんな……」
 言い淀んだまま沈黙が降りる。ざあと風が吹いて、障子が無遠慮な音を立てた。
「なにか、俺にできることはないか」
 柔らかく澄んだ土方の言葉を正面から受け止めて、沖田はぎゅっと目を瞑った。それを開いて、そこに土方がいることを確かめる。沖田が口を開き、息を吸うのを土方はじっと見ていた。
「死なないでください」
 低く、振り絞るような声だった。土方の瞳を見つめたまま、表情がぐしゃりと歪む。酷い顔だ、と思った。他の誰にも見せられるものではない。
 土方が膝に置いていた手に、沖田の手が重なる。そろりと撫でたかと思うと、痛いくらいに力が込められた。
「絶対に、絶対に死なないでください。いなくならないで、隣にいてください」
「わかった」
 誤解しようのない答えを渡し、ほとんど縋りつくようなその様子を宥めるように手を握り返す。ほうと深く息を吐いた沖田の手から力が抜けた。
「約束ですよ」
「ああ」
 即答を重ねるとようやく了したようで、土方でなければわからないほど小さく笑った。顔色もましになったように思う。
 眠れそうです、ぽつり呟いた沖田の手を引いて部屋に戻る。閉じた障子の向こう、雲が流れて月光が明るくなるのがわかった。

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