沖田の成長を見守る土方の話
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「おお、似合うじゃないか」
若い門下生がもう着られなくなったからと何年もしまい込んでいた袴を譲り受け、沖田に着せた近藤が満足げに頷く。十二分に使い込まれた跡の残る、地味な生地のその着物自体は決して上等なものとは言えなかったが、深い藍色は沖田の肌をいっそう白くみせたし、腰から踝にかけて広がる輪郭は幼く愛らしい容貌に少年らしさを与えた。手首や足首の細さに目が行くものの、適切な食事と睡眠を得た身体に不安定さはない。
沖田は袴を摘んで持ち上げたり、数歩歩いてみたりして感触を確かめた。袴など一生縁のないものだと思っていた。幸い大きさは今の沖田にちょうどよく、大きく動いても足がもつれることはなさそうだ。
そわついた様子の沖田を見て、近藤はまた目尻を下げる。沖田自身は着るものに頓着はないが、近藤が喜んでいるのがわかって嬉しかった。
近藤が似合うと言ったのは贔屓目もあろうが、土方にはそれはただの事実だろうと思われた。見目がよいのだから似合わないはずがない。きっと誰に訊いても同じ答えを寄越すだろう。一目見てはっと惹き込まれる感覚は、袴によるものではない。
「すまんが少し出ないといけなくてな。トシ、見てやってくれるか」
「わかりました」
もとより沖田に剣を教えるのは自分の役目だと思っていたから拒否するはずもない。震える子供に、強くしてやると言った責任は取るつもりだ。沖田が稽古についてくることができれば、だが。
安心させるように沖田の背をぽんと叩いて、近藤は道場を出て行った。普段は大勢が鍛錬を行う道場が、土方の腰ほどまでしか身丈のない沖田とふたりでいるとやけに広く感じる。朝の澄んだ空気の中、声や足を擦る音もいつもよりよく響いた。
「よし、まずは構えからだ」
木刀を二本取り、一本を沖田へ渡してやる。細腕には重たいだろうが、沖田は危なげなく受け取って無骨なそれに興味深そうな目を向けた。
「俺の真似をしてみろ」
沖田の隣に並んで構えの手本を見せる。姿勢のポイント、手や指のかたち、力の込め方と抜き方、視線の位置。ひとつひとつ説明するのを、沖田は頷きもせず食い入るように見つめていた。実際にやってみるようにと土方が視線で促すと、沖田は握りしめていただけの木刀をすいと正面に持ち直す。
途端、空気が一変して土方は息を呑んだ。
木刀はまるで沖田の身体の一部であるかのように手に吸いつき、腕から伸びている。余計な力が入っているようには見えないのに、剣先は宙でぴたりと静止してぶれない。小さな両足はしっかりと地を踏みしめて揺るがず、存在しない相手を睨む横顔は負けるつもりなど毛頭ないと告げている。
「……どう?」
顔だけを土方へ向けて評価を求める表情は幼さが戻って、さきほどの緊張感は錯覚だったかと思う。だが首から下は微動だにせず、いつでも弾かれたように動き出せそうだった。
「巧いぞ」
言われ、沖田はほうと息を吐く。今度こそ緊張が緩んだ。
沖田は優秀な生徒だった。
近藤のもとで何人もの門下生を相手しているから少し見れば大体のことはわかる。どれほどの実力があって、どんな癖があって、こちらの手をどう読んでいて、それに対してどう出るか。教えたことを覚えられるか、厳しい稽古にどれだけ食らいつけるか、稽古をつけて、どこまで伸びるか。その人間の本質的な素養に対する勘には自信があった。
沖田は優秀な生徒だった。今までに世話したどの門下生に対するものよりも強い確信に、その子供を教えることができる歓喜に、背筋がぞくぞくと震えた。
用事を済ませて帰ってきた近藤が、道場を覗いて感嘆の声をあげた。
「これは……なかなか、いや、大したものだ」
汗を浮かべたふたりが近藤に気づいて稽古の手を止める。近藤はふたりを交互に見て、うんうんと頷いた。
「トシの教え方がいいのか、総司の覚えがいいのか。両方かな」
「総司の覚えがいいんですよ」
世辞ではない。土方が教えたことを、沖田は土方の意図の通りに受け取って実践することができた。目がよいし、頭もよいのだ。理解したことを表現できる身体能力も持ち合わせている。なにより力の差のある土方に対して全力で向かってくる根性があった。技術と経験を得ればどれほど成長するのか想像もつかない。
褒められているのだと察した沖田が、上気した頬を綻ばせた。
「総司、ちょっと構えてみてくれ」
近藤に乞われ、覚えた構えをしてみせる。繰り返すうちに馴染み始めた姿勢は、もうどこにも無駄な力がかかっていないようにすら見えた。
構えたまま急いた様子で近藤を見上げる沖田を仔細に観察し、近藤は小さく笑った。
「トシにそっくりだ」
近藤が誰かをそんなふうに評したことは初めてだった。悪い意味ではない。土方はこの道場で近藤に次ぐ実力者だ。
教わった通りに身体を動かしながら目を輝かせる沖田と、それを褒める近藤に、心の奥底をくすぐられたような気分になった。他の者を指導したことはあれどこんなにもまっすぐに受け止め吸収されたことは初めてで、嬉しさと気恥ずかしさが綯い交ぜになる。
持っているものすべてを教えたらどんな剣を振るうようになるのだろうと考えると、その姿を見てみたい、そばで見守っていたいと思わずにはいられなかった。
沖田の成長は目覚ましかった。彼は土方や近藤が予想したよりもはるかに早く、痩せた土地が水を飲むように技術を身につけていった。初めこそ土方が個別で指導にあたったものの、ほどなくして他の門下生と共に稽古に参加できるようになり、互角かそれ以上の力を示している。
「土方さん、沖田にどんな稽古をつけたんですか」
そう訊かれたのも一度や二度ではない。冗談のような口ぶりを装ってはいるが、自分よりも経験が浅く身体も小さな子供に追い越されようとしていることに対する感情が滲み出ていた。
羨望、嫉妬、畏怖、あるいは敵意。この道場において沖田は明らかに異質で、他者の目を惹いた。当人はそのように目立つことなど望んでいないようだったが、存在を無視できるかどうかは沖田に決められることではない。
「特別なことはしていない。ああいうのを、天賦の才というのだろう」
沖田が近藤や土方と寝食を共にしていることは知られていたが、だからといって特段贔屓した扱いをしていると思われるのは心外だった。そも、相手に合わせて指導方法をがらりと変えることができるほどの器用さを、残念ながら土方は持ち合わせていない。
他の者と同じような指導を受けて、他の者より数段早く力をつけたのだから、沖田自身の才であることは明白だ。
土方とて、才にまったく恵まれなかったわけではない。過不足ない体格は自分の思うように操れたし、努力だけで技術のすべては身につかないだろう。
だが沖田を見ると、武術の神に愛されるとはこういうことなのだと思わざるを得ない。沖田の身体の動きには美しさがあった。それは、あるべき様を狂いなく体現しているからこその美しさであった。
動きを思い描けることと、それを実行できることの間には大きな隔たりがある。人によっては越えられないことに絶望するほどのその隔絶を、沖田はいとも簡単に飛び越えてゆくのだ。
「そんなの、どうでもいいのに」
門下生たちが帰っていった道場で、沖田が不満げに呟いた。苛立ちの混じった行き場のない声が広い空間に反響して霧散する。
先程までここにいた人間が、誰が沖田より強い、あるいは沖田に負けている、という話をしていたのは土方も知っていた。数人による内輪の雑談のようだったが、ああも白熱されては嫌でも聞こえてくる。
本人が目の前にいないところでそのように話題にされるのは気分のいいものではない。ましてやその声には揶揄や焦燥が含まれていた。棘のある言葉は、聞いていて面白いはずもない。
「お前の成長が早いから焦っているんだろう」
客観的で公平な感想を述べたつもりだったが、沖田のむくれた表情は消えない。小さな足で床をどすどすと鳴らしながら出入り口へ向かう。
「こら、道場で足音を立てるな」
この場での礼節は足を踏み入れる前に教えたものだ。沖田は歩を止め、ぎゅうと拳を握りしめた。
「あんなこと言うなら強くなればいいだけなのに」
純度の高い本音が零れる。
正論だった。あまりにも正論で、それを言うことの許される者が限られる言葉だ。
「言ってやるな。誰も彼もがお前ほど器用なわけじゃないんだ」
稽古で髪の乱れた頭をぽんぽんと撫でてやる。片手に収まるほどの頭が、おそろしく回転がよく、不安になるほど繊細であることを、土方はもう知っている。
「お前はどうなりたいんだ。強くなって、それから」
話題の矛先を変えると、沖田は土方を見上げて惚けたような顔をした。そんなことは考えたことがないと紫の瞳が言う。
「僕は……」
言い淀んで小首を傾げるのにあわせて細い髪が揺れ、陽光を受けてきらめいた。
「強くなって、近藤さんと土方さんが褒めてくれたら、うれしい」
欲のない言葉を返す様は、土方にとってはまだあどけなく可愛らしい弟のものだった。
だが強さや美しさは人目を惹く。興味を誘い、人を乱す。
沖田の望むと望まないに拘らず、外部は彼に目するだろう。今はまだこの道場に閉じているが、いずれ町の人や他の道場の者が、沖田の存在に気づく。彼の飛び抜けた、溢れんばかりの才能に気づく。気づいて――そして、近寄ってくる。
決して目を離してはならないと、土方の本能が囁いた。
試衛館には交流のある道場がいくつかあり、定期的に行き来して交流試合を行う習慣がある。この日は他所の道場の者が来訪することになっており、沖田は見学というかたちで同席した。
隅で座したまま、目の前で繰り広げられるやり取りを睨む。見ているばかりでは退屈するかと思いきや、無表情でしかし目だけは隠しきれないほどにぎらつかせていた。
「……今の」
「なんだ」
試合の合間に沖田がぽそりと言ったのを拾うと、彼はちらと土方を見た。
「いったん退いたほうがよかった」
思わず目を見開く。土方もそう思っていた。強く攻め込んで押し切れそうに見えたが、相手の力が上回っていたため結局は負けてしまった。実力にそこまでの差は見られなかったから、この結果は戦略の差だ。大きな判断ミスではない、しかし小さな判断の積み重ねが結果を生む。
頷くと沖田は答え合わせに満足したのか、また前を向いた。
「トシ、ちょっといいか」
離れたところから近藤に呼ばれ腰を上げる。彼は相手道場の師範代となにやら話していたようだった。近藤よりもふた回りほど小柄ではるかに歳上のその男は、目尻に皺を寄せて近藤と土方を見た。
「どうかしましたか」
「こちらの方が、総司の手合わせを見たいと」
「総司ですか?」
反射的に訝りながら訊き返すと、男が一歩こちらへ近寄る。
「初めて見かける子だったから近藤君に訊いたら、どうやらかなりお気に入りのようだったから、どれほどの実力かと思いまして」
一体どんなふうに紹介したというのか。近藤はさして気にしていないようで言葉を引き継いだ。
「俺はもう、総司は人前に出してもいいんじゃないかと思うんだが、お前はどう思う?」
確かに沖田の腕は披露に値するものだ。彼に足りないのはもはや技術よりも経験のほうであったし、土方に反対する理由はない。自分が教え育てている優秀な生徒を見て、どんな反応が返ってくるのか知りたいという気持ちもあった。
「俺もいいと思いますよ。本人に訊いてみましょう」
沖田は先程と同じ姿勢のまま試合を見ている。長い前髪が表情を隠し、その目になにが写っているかは伺えない。
「総司」
振り向いた隣に膝をついた。試合の邪魔にならないよう、顔を寄せて声を潜める。
「あちらの師範がお前の手合わせを見たいと仰っているんだがどうだ? 誰か相手してもらいたい人はいるか?」
今日はずっと試合を見ていたのだから一人くらい打ち合ってみたいと思う人がいただろう、どうせならばその人に相手してもらうのがよい。こちらの指名が必ず通るわけではないが、言うだけは許されるだろう。
沖田は一拍置いて口を開いた。
「土方さん」
一瞬、名を呼ばれたのかと思った。だが沖田の表情を見てそれが指名だと気づき、返答の言葉を掴み損ねる。
「……俺とはいつでもできるだろう。せっかくだから向こうの方で、」
「土方さんがいい」
沖田はごくごく真剣だった。冗談でも適当でもなく、ほんとうに土方と手合わせしたいからこう言ったのだと、瞳の奥に灯った熱が言う。
土方は短く吐息をつき、ふたたび近藤たちのほうへ歩み寄った。
「俺とでもいいですか」
それだけで近藤はやり取りを察したようで、いいんじゃないかと笑った。隣の男も特に不服はないようだ。
「総司はトシがお気に入りだからなあ」
「なんですか、それ……」
気の抜けた言葉に脱力する。稽古の間こそ技を盗もうと真面目な目で見てくるが、それ以外は構えば逃げるし放っておけばのしかかってくるような有様で、土方にとっては手を焼かされる立派なクソガキだ。
ちょうど試合が終わったのを合図に目配せで沖田を呼び、部屋の中央に進む。
向かい合って一礼。同時に木刀を構える。土方が教えた通りの姿をつくる様子は鏡のようだった。体格に差があるため、土方は見下ろし、沖田は見上げる視線で相対する。
びゅうと空を切る音がして沖田の剣先が土方へ向けられた。その速さに周囲が息を呑むのがわかる。咄嗟に構えを改めながら、土方は自分が高揚し全身に痺れが走るのを感じた。
沖田が土方の手を読んでいるのがわかる。土方は沖田が次にどう動くかがわかる。これはもう、わかるとしか言いようのない感覚だった。身体の使い方も剣の技術も考え方も土方が教えたのだから当然といえば当然だが、ここまでぴたりと一致するのはもはや快感ですらある。
これが戦場での味方同士だったらこんなにも心強い存在はない。自分がもうひとりいるようなものだ。
だが今は手合わせをし互いに勝ちを掴みに行く立場だ。兄としても指導者としても、ここで負けるわけにはいかない。沖田が一手先を読んでいるなら土方はその更に先を読むまでで、じりじりと間合いを詰めながら、速さと力量で押し切った。腕を下ろした沖田が肩で息をしながら睨んでくるのを受け流し、礼をする。沖田もそれに倣って試合は終わった。
場の緊張が溶けるのが伝わる。時間にして数分のはずだったが、もっと短い時間であったようにも、ひどく長い時間であったように思う。
剣を振るう沖田の姿はまるで舞っているようだった。同じように動いていても、土方はこんな印象を与えはしない。これは沖田の天性のものだ。たとえば剣舞でもやらせてみたら相当に化けるだろうという予感がした。
沖田を連れて近藤たちの元へ挨拶に向かうと、男が笑い皺を刻んで上機嫌で迎えてくれた。どうやら沖田の腕前はお気に召したようで、土方は内心でほっと胸を撫で下ろす。
「いやあ、素晴らしかった。こんな子をどこに隠していたんですか」
土方の一歩後ろに立った沖田は軽く会釈しただけで動かず、借りてきた猫のようだった。近藤や土方のことはもう怖がりはしなくなったが、見知らぬ人に対し必要以上に身構えてしまう習慣はまだ抜けないらしい。庇うように身を寄せてやると、背後で沖田が袴を掴んできたのがわかった。
「土方が稽古をつけているんですよ」
近藤が誇らしげに言う。そうですか、と男は鷹揚に頷いた。
「これだけ動ける子だとさぞ教え甲斐があるでしょう」
「ええ、まあ。ご覧いただいた通りです」
「次にうちへ来る時はぜひ沖田君も連れていらしてください」
沖田はなにも言わない。代わりに近藤が、ありがとうございます、とどうとでもとれる返事をした。
次に沖田が口を開いたのは来客が辞したあとだった。道場を片づけながら、土方だけに聞こえるように言う。
「行かなきゃだめ?」
次の交流試合の話だというのは顔を見ればわかった。興味がないと書かれている。
「なんだ、行きたくないのか」
「稽古なら土方さんが教えてくれるから、それでいい」
無邪気に返された言葉にじわりと仄暗い喜びが灯る。
だが沖田の言うことは、彼自身の成長を妨げるものだ。土方よりも強い人間はたくさんいる。そこには沖田の学ぶべきことがあるし、会得できれば沖田の力はいずれ土方を、あるいは近藤をも上回るだろうと、欲目を抜きにしても思えるほどの素養を持っている。それを無視できるほど、土方は沖田の成長に無関心ではない。
「どうしても嫌だというなら無理強いはしないが。俺も近藤さんも行くぞ」
「……じゃあ行く」
少し卑怯かと思いつつ、いつだって沖田に対して近藤の名前は覿面に効いた。
傾き始めた陽の光が沖田の白い頬にさして彩る。この未だ熟しきらない少年がこれから外の世界を見て変容してゆくのだと、自分の目の届かない場所でもさまざまな刺激を受けるのだと思うと、今まで庇護下にあったものが離れてゆく寂しさのようなものが疼いたが、驕りが過ぎると黙殺した。
招かれた道場に土方は何度も行ったことがあったが、沖田は初めて行く場所、初めて見る人ばかりで落ち着かないようだった。きょろきょろと視線を彷徨わせては、存在を確認するように近藤と土方の姿を探す。
他の門下生も数人連れて訪問し、この道場の門下生たちと交流試合を行う。それがこの日の予定だった。
「やること自体はこの間うちでやったものと変わらないから、普段通りにしていればいい」
緊張を解いてやろうとかけた言葉がどこまで伝わったかはわからない。剣の技術はあんなにも素直に飲み込むのに、それ以外の部分、こと対人関係に関しては警戒せずにはいられないようで、ぴりぴりと気を張るのが土方にまで伝わってくる。武術の稽古とは違い、説明を理解すればすぐに受け入れられるようになるものでもないので、深くは触れないようにしていた。
そんな沖田の緊張も、試合の妨げにはならなかった。ひとたび木刀を構えると、殺気にも似た集中力を発揮してしなやかな動きを見せる。結果としては勝ちもしたし負けもした。そのすべてが今後の沖田の糧となることだろう。この経験で沖田がなにを得たのかは、次に剣を交えればわかるはずだ。
交流試合が終わったあと、土方は近藤と共に師範代と話をしていた。ほとんどが雑談の域を出なかったが、これも交流の一部だと近藤に言われてしまっては会話に参加するしかない。
視界の隅では沖田がここの門下生たちに混じって床を磨いていた。藤色のまるい頭が忙しなく動く。
「それにしても、おふたりとも流石にお強い」
「簡単にやられてしまうわけにはまいりませんから」
土方は近藤が余計なことを言ってしまうのを止める役割のようなものだ。雑談に向いているのは近藤のほうだし、適当に相槌を打ちながら耳に入れる。
しばらくすると掃除が終わったようで、沖田が道具を片づけ始めた。こちらの話もきりのよいところで終わりにしようと、会話に割って入る切欠を探していると、ひとりの青年が沖田へ近づくのが見えた。
先程沖田と試合をした男だ。土方よりいくらか若く、すらりとした体躯を軽やかに動かすその男は技術も力量もあり、沖田と散々競り合って勝った。いい試合だったと思う。沖田が負けたのは経験の差に過ぎないと土方は考えている。
彼は沖田になにか話しかけたようで、沖田が振り向いた。眉根を寄せてあからさまに不機嫌そうな顔をしているが、口が動いたので言葉で返答はしたらしい。
男はよほど強靭な精神を有しているのか、沖田の冷めた反応も気にせずにこにこと話を続けている。沖田の幼い外見からは想像のつかない強さは、敵意か好意か両極端な反応を招くだろうと思っていたが、この男においては後者だったようだ。大仰に手振りを交えながら話す様は役者のようで、なにを話しているのかまでは土方には聞こえないが彼が興奮状態にあるのは伝わってくる。
不意に男が、振り上げた手を沖田の頭に置いた。あまりに突然のことに小さな身体が強張ったのがわかる。赤紫の瞳をまるく見開いて見上げてくる沖田に、男が目を細めた。髪の柔らかさを確かめるようにゆっくりと手を撫で下ろし、指の背で頬に触れる。
「総司」
考えるより先に声が出た。
存外よく通ってしまった土方の声に、近藤と師範代が驚いて会話を止めた。そちらは見ないようにして、大股で沖田たちへ近づく。男は土方の姿を認めて最低限の会釈をした。
「帰るぞ」
肩を引き寄せると沖田は小さく頷いた。またね、総司君、という距離を詰めた声が投げかけられて、土方の手に力が篭る。特に気にした素振りもなく離れていった男の後ろ姿を、土方の群青色の視線が睨めつけた。
密着した身体が居心地悪そうにもぞもぞと動いて、土方の袴を乱す。
「土方さん、肩、痛い」
「すまん」
すぐ下から訴えられて慌てて手を離すと、沖田が首を上向けて見上げてきた。
「土方さん」
もともと土方はそう気の長いほうではないが、そうだとしても大きな声を出すような場面ではなかったはずだ。沖田の肩から離した手を緩く握り、自分は一体なにをしたのかと思案する。
「……土方さん?」
不思議そうに見上げてくる瞳に視線がぶつかった。さっきは微塵の愛想もなく男を受け流していたその顔が、今はなんの警戒もなく土方だけを視界に入れている。
吸い込まれそうだ、と思った。肚の中で、ぐつ、となにかが煮えたような、あるいはぼう、と蝋燭の芯が燃えたような音がして、土方の思考の邪魔をした。
「なんでもねえ。行くぞ」
うん、と素直に頷いた、今はまだ子供の手を、土方は包み込むようにして握りしめた。
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