紫紺の七夕の日
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総司と名乗ったその子供は、拾ってから数日かけてようやく心をひらいてくれたようだった。七夕祭りの帰り道、初めて向こうから握られた小さな手の感触を確かめながら、土方はそのことに自分がひどく安心しているのだと気づいた。
帰る場所のない子供に、どこか以前の自分を重ねている自覚はあった。家族を失いひとりになって、もうなにも残されていないのだと、膝を抱え込んでいた頃を思い出す。かたく閉じた手を近藤がすくい上げてくれた、あの時どうしようもないほどに震えたことを、顔を上げれば光があったことを思い出すと、目の前の子供を放っておくことはできなかった。もしもあの時近藤に出会えなかったらと想像するだけで身体の芯から凍りつきそうだった。
祭りの余韻を背に、からからと下駄を鳴らしながら、みっつの足音が門をくぐる。
「ただいま」
扉を開きながら近藤が、家の中に向けて言った。土方もそれに続けてただいま、と言う。沖田は歩を止めてふたりを見上げた。繋いでいた手に引き止められて、近藤と土方が振り返る。
「どうした?」
「なに」
「うん?」
「それ」
赤紫の瞳を大きく瞬かせる様子に、合点したのは土方のほうが早かった。
「家に帰ったらこう言うんだ」
ああ、と近藤が納得の声をあげて言葉を引き継ぐ。
「そう。家にいたものは、おかえり、と返すんだ」
聞いて、ただいま、おかえり、と沖田は口を動かした。土方に剣の教えを乞うた時もそうだったが、氷の溶けた沖田は存外に素直で、言われたことをそのままの形で受け取ることができた。連れ帰った頃の、野の獣のようだった姿から考えると、今の素直さはひどく可愛らしく感じる。この齢の子供が知っていて当然のさまざまなことを知らずにいるのは明白だったし、教えられることはみんな教えてやりたいと思った。剣も勉学もきっと覚えが早かろうという確信がある。
「よし、じゃあもう一度やってみるか。トシは家の中にいてくれ」
「はい」
ものを覚えるには実際にやってみるのが一番だ。土方は言われた通り、家の中に入り扉を閉めた。
もうすっかり夜も更けて、あたりはしんと静かだった。ゆっくりと扉を開けた沖田の小さな姿が月明かりに照らされて現れる。一歩後ろで近藤がにこにこと保護者の顔で見守っていた。
沖田は扉に手をかけたまま、土方を見上げて教わったことを実行した。聞いただけの歌を美しくなぞってみせたその声で、覚えたばかりの挨拶を紡ぐ。
「ただいま、土方さん」
まっすぐに届けられた言葉に、なぜだか土方のほうが泣きたくなって息が詰まった。
近藤の元へ来てからずっと、他所から来た、受け入れてもらった立場でいた。近藤は家族だと言ってくれたし、土方もそう思っていた、皆もこの家の家族として扱ってくれた。それでも、外から入れてもらったという認識は消えてなくなりはしなかった。
それが今、土方はこの家の人間として、今までどんな生活をしていたかもわからない悲しい子供を受け入れる立場にある。
すべて巡り合わせだったのだと思った。土方が近藤の元にいることも、あの夜あの火事に居合わせたことも、まだ息のある沖田を助けられたことも、土方の中で滑らかな楔のように繋がり合って、今この瞬間があるのだと思った。
土方を迎え入れた時の近藤もきっとこんな気持ちだったのだろうと今ならわかる。難しいことはなにもなく、張り詰めた緊張で弱さや淋しさを懸命に隠さなくてもいい、ただ安心して帰ることのできる場所があるのだと、自分がそこにいるのだとどうにかして伝えたかった。
土方は腰を落として視線を沖田の高さに合わせ、両手を広げる。沖田の表情がぱっと和らいだのがなによりも雄弁な答えだった。
「おかえり、総司」
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